一昨日、本山から派遣されていらっしゃった布教師の法話を聞く集まりが近くであった。年に1回このような会があり、私は聞くのを楽しみにしている。養成所で研修を重ね、さらに実地で経験を積んできた方々の話は、内容も話しぶりも徹底的に磨き抜かれていて、自分が檀家さんの前でお話しするときのよいお手本になる。
今回のお話の中で、ひいおばあさん4人の名前を全部言えますか?という質問があった。言える人はほとんどおらず、私も2人しか分からない。わずか数十年前に生きていた人でも、記憶がある人は急激に減っていく。私だって、それなりに年を取って死んだら、50年経って覚えている人などほとんどいないだろう。
その話から布教師さんは、我々の命がそういう名前も知らないたくさんの先祖によって受け継がれてきたものだから、大事にしなければいけないですよという話に持って行った。
私も子供たちの前で、そういう話をすることがある。両親は2人、祖父母は4人、総祖父母は8人……と2倍2倍と増えていって、7代前まで合計すると(延べ)500人以上になる。そのうち1人でも欠けていたら、今の私はなかったかもしれない。今の私があることをご先祖様に感謝しなければいけないですよと。
でも今回ふと考えた。もし人生に悩み苦しんでいる人、お釈迦様の説く「一切皆苦」をしみじみその通りだと思っている人にこのような話をしても、少しも役に立たないのではなかろうか。もしかしたら、苦しみに満ちた人生を与えた先祖や親を怨むことになるのではないかと。
もちろん、人生が苦しいのは先祖や親のせいだというのは責任転嫁も甚だしい。「誰も産んでくれなんて頼まなかった」と憤る子供のようなものである。先祖や親が与えてくれたのは命であって、実存的な自我ではない。しかし、苦しみのもとである自我の原因は先祖でないからこそ、ある意味関係のない先祖を引き合いに出しても救われないのである。
自我の根本原因は無明や煩悩であり、それを乗り越えるために仏教がある。先祖の入る余地は(少なくとも教義的には)ない。
しかし実際、日本仏教は先祖教である。お釈迦様をさておいて、先祖を崇め奉っている人が多い。それに合わせて僧侶も、自己の成仏得度よりも先祖が大事だ、先祖を拝もうという話をしがちだ(葬儀も法事もそれが主目的だからなのだが)。
民俗と絡み合って発展してきた日本仏教の事情がある以上、先祖が大事だという話は不可避であろう。でもそれが結論ではいけないと思う。実存的な苦しみを取り除き、仏心、道心、菩提心を植え育てる話に進まなければならない。お経の最後の回向で「願わくは我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを」と願うではないか。
でもそうすると出道や出家の話にならざるを得ないわけで、じゃあ袈裟をつけている僧侶はいったい仏道を歩む見本になっているのかが問われる。布教師さんが本山での修行を終えて挨拶を回っているとき、ある方から「あなたはなぜ袈裟をつけるの?」と問われたという。布教師さんは「お坊さんだからです」と答え、その方は「袈裟をつけているということは、いつでもどこでも仏教を説きますということなんだよ」と教えたそうだが、実に重い問いであると思う。
というわけで自分の生活ぶりを棚に上げるために、先祖の話でお茶を濁してしまっていないか、反省している最中だ。