お正月に、お寺では今年法事が当たっている方の法事札を張り出す。いつから始まったのか分からないが、近隣の寺院はどこでもやっていることであり、珍しいものではない。
どこのお寺もそうだが、法事札には戒名、俗名、享年、地区、現在の当主、続柄、回忌年数などが記されている。お正月に年始にいらした檀家さんは、これを見て今年自分の家で法事がないかを確かめる。法事が終われば住職がその分をはがし、1年かけて少しずつ札がなくなるという仕組みだ。
この法事札、個人情報保護の観点から問題があるのではないかということが数年前にあった。でもそのときは、全員に承諾を得る必要はなく、掲示拒否の申し出がなければ掲載してかまわないという通知が出された。
しかし、去年になって、掲示拒否の申し出がなくとも、法事札の掲示は望ましくないという見解を本庁で聞いてきたという方がいた。理由は相変わらず個人情報保護だったが、どうも法事をしない人の急増が背景にあるのではないかと思っている。
お坊さんを呼ばないでお墓参りだけとか、そもそも法事をしないとか、そんなかたちが増えているらしい。いわゆる寺離れである。確かに、意味の分からないお経を読んで、檀家さんとゆっくり話をせずにすぐ帰っていくお坊さんには、ありがたいと思う暇もないし、お布施のし甲斐もない。
今はお葬式もお坊さんを呼ばないで行う人が増えているのに、まして法事で呼ぶはずもない。お坊さんが法事に呼ばれなくなれば、お寺に法事札を貼っておいても仕方がない。
田舎ではまだましである。法事をしないと、法事札はずっとお寺に貼られたままになる。これが田舎では無言の圧力になることが多い。残された法事札を見た本家や親戚が、早くしろよと忠告するからである。
お寺としてはそういって促してもらえるのはありがたいが、一歩間違えると、世間体のために法事をするというような話になりかねない。そんな法事は早晩形骸化する。無言の強制力で、施主家の自主性を失わせ、法事を形骸化させる恐れが、法事札の掲示にはあるかもしれない。
お寺がお葬式や法事ではもう成り立たない時代が近づいている。しかし今一度、法事は何のために行うのか(もちろん、亡くなった人の祟りを恐れてなどでは決してない)を説明するとともに、やってよかったと思われる法事にしたいと思う。