鶴岡・善寶寺の斉藤信義老師が去る11月25日に遷化され、日曜のお逮夜(通夜)、月曜の密葬(出棺)に参列してきた。世寿92歳。
大学の後輩ということで何かと目をかけて下さった。祖父の具合が悪くなったときにイレギュラーな期間に安居させて頂き、その上、安居中に山内で修士論文の研究を許して頂いた。雲衲の身であったのに、よく方丈の間に呼ばれ、宗教と科学の話をよくお伺いしたものだ。母校である東京大学の国際競争力を上げなければならないとよく力説しておられたのを思い出す。密葬には東大名誉教授の高崎直道先生と木村清孝先生が参列しておられた。
私が送行してからも、印度哲学の同窓会や御詠歌の講習会で年1回はお会いした。平成13年の結婚披露宴にもいらっしゃっている。またいくつかの奨学金に推薦してくださったおかげでインドに留学することもできた。
平成15年には本山の副貫主に就任。体調の悪い禅師の代理で、90前後というお年で法要や大会のため全国を飛び回っておられた。調子のよいときは善寶寺の階段を上って通勤なさっており、同窓会では正門から山上会館まで徒歩でいらっしゃるほどの健脚だった。
昨年、善寶寺を訪れたとき、106歳で亡くなった宮崎禅師と同じ年まで生きると約束したこと、私を山形大学に就職させたいことを仰った。今年の夏にお会いしたときも元気そうだったのに、その後すぐ入院していたらしい。私には、本の出版を望んでおられたが、ボードゲームの本では納得してもらえないだろうな。
遺弟さんから伺ったが、新聞には老衰とあったものの、実際はいろいろな持病と疲労との戦いだった。そして亡くなる直前まで「無念だ」「悔しい」「まだ遣り残したことがある」と仰っていたという。
和尚さんが亡くなることを「遷化」という。教え導くという仕事をする世界を、この世からあの世に移すという意味である。「般涅槃」ともいうが、受ける印象はだいぶ異なる。般涅槃は輪廻から解脱するが、遷化は一切衆生が成仏するまで輪廻世界に留まる。
斉藤信義老師は奇しくも11年前に亡くなった私の祖父と同い年。住職になって11年、尊敬すべきたくさんの僧侶を見送ってきたが、その方々は今、いったいどこにいるのかと、善寶寺の窓から見える木立ちを眺めながらふと考えた。
遺偈
脱落研参 平常道心
總持劫外 坐佛只管