水曜日から2泊3日で、小田原の最乗寺で開かれた御詠歌の講習会に行ってきた。参加は必須でないが自己研鑽のため、年1回は行くようにしている。全国各地で開かれているが、南東北か関東に行くことが多い。
1日目は葬儀が入ったため、午前中にしてもらってお昼に出発。自家用車、長井線、山形新幹線、東海道線、大雄山線、タクシーと5時間かけて、到着したときは薬石(夕食)の時間だった。幸い、夜の特別講習があったのでそこから参加する。
私は師範養成所というところで御詠歌を始めた口だが、そこでは全国から80名ほどが集まり、志を共にする同期の仲間ができた。養成所を終えて9年、講習会で会っていた同期生は今年から一斉に特派師範に任命され、気がつけば後輩ばかり。とはいえ肩身の狭さを感じたのは最初だけで、すぐ打ち解けた。
半日遅れて参加したこともあって、3日間の講習はあっという間に過ぎた。お唱え面では、この頃小さくまとめようとするきらいがあったかもしれない。同じ音が続くと口が小さくなり、高い音ほど喉がしぼむ。いつもは教えるばかりだと、こういうところが気づきにくい。
講演では、お誓いの実践というテーマで、日ごろ梅花講でどのような活動をしているかをお互いに発表しあった。急激に人口が減っている梅花流の将来を危ぶむ声が多く聞かれたが、話を聞いているうち、それは御詠歌だけの問題ではなく、お寺というあり方そのものなのではないかという気がしてきた。
梅花講員の減少は、一般檀信徒の寺離れの氷山の一角なのである。今、家のあり方の変化や過疎化に伴って、寺檀関係は急速に解消されつつある。御詠歌でお寺に通っていたおばあちゃんが亡くなったとき、お嫁さんが交替しないのは、そこまでお寺に親しみを感じていないせいもある。
逆にいえば講員が増えるということは、お寺がまだ機能している表れである。1人しか増えないにしても、その周囲には行きたくても行けない人や、行く気はないけれどもそういう活動があることを知った人がたくさんいるだろう。いまどき、住職や寺族が研鑽を積み、近所の方に声をかけて講員になってもらうにはたいへんな時間と労力がかかる。しかし講演の中で先生が仰っていたことだが、講員さんはいろいろな面でお寺の力になって下さるのは何物にも代えがたい。
お寺の存続にとって、御詠歌は不可欠とまではいかなくても、強力な要素であることは間違いない。これまでは自分の楽しみのためにやってきた御詠歌だが、これからはお寺を潰さないために御詠歌を活用するという意識も必要になってきそうだ。
最乗寺にお参りするのは初めてだが、高い木々の合間に大きな伽藍がどっしりと構えている見事なお寺だった。祈祷の守護神である道了尊とは天狗のことで、山紋もヤツデだった。鶴岡の善寶寺(龍神)、愛知の妙厳寺(稲荷)とともに曹洞宗三大祈祷所のひとつに数えられている。
新しい仲間もできたし、お唱えの点検もできたし、梅花流の将来に希望も持てた。参加したくてもできない方がいる中で3日間、御詠歌漬けの幸せでありがたいひとときだった。