『無宗教こそ日本人の宗教である』

日本人は無宗教を恥じることはない。むしろどんな宗教も分け隔てなく接するという寛容さは日本人の美点であり、宗教が対立を生む現代においては大きな価値になるから自信をもて、という本。
成田山のようにたくさんの参拝者が訪れる宗教施設は世界のどこにもないし(成田山1300万人、メッカ500万人)、観光に神社や寺院はつきものである。大いに賑わう元旦の初詣も、冠婚葬祭のいずれもが立派な宗教行事である。しかし日本人にはその自覚がない。それは神道、仏教、さらにキリスト教を択一でなく信仰している現状と、そして宗教というのはイスラム教のように生活を変えるほど何かを拝むものだという観念から来ている。
この原因には、長い年月を経て形成されてきた神仏習合に基づく文化、明治政府が「神道は宗教にあらず」として国民全体の習俗や道徳に位置づけようとしたこと、創価学会の強硬的な折伏やオウム真理教の事件への警戒感が強まったこと、また個人よりも社会を優先するべく「こころ」をひとつにするために無私や無心というような「無」に価値を置いてきた国民性があるという。
そして現代、9.11事件を引き起こしたイスラム原理主義や宗教間の対立が世界中で際立つ。これが本当は教義の対立ではなく利害の対立であることは、十字軍、法華一揆、一向一揆という歴史からも明らかであるが、宗教はどうしてもその看板になりやすい。
そこで日本人が取る無宗教(無の宗教)は、社会に宗教的対立を生まないために重要になってきている。これから日本は外国人にとって魅力的な国として、自国の文化を発信していけるだろう。
出家の制度が崩れたことを堕落ではなく無宗教の流れと捉え、階層を作らずに継続していけることを評価する。原理主義によって排外主義・非寛容や暴力を生むよりもずっとよい。
終章のJUniverse(日本が無宗教によって異文化を受け入れ、世界全体になっていく)など日本賛美すぎるところはついていけないが、無宗教という側面から見た宗教史的な考察はとても興味深く、混迷する仏教の未来を考える上でも示唆に富んでいる。

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