『仏教の正しい先祖供養―功徳はなぜ廻向できるの?』

仏教は葬儀や法事に関わらないで、生きている人の救済に努めるべきであるという主張がある。先祖供養は中国以来の伝統で儒教によるものであり、インドで生まれたものではないとも言われる。しかしこの本では、インド初期仏教の経典で説かれる先祖供養の意義を明らかにし、そうした主張にアンチテーゼを唱える。
『盂蘭盆経』は偽経(中国撰述)であることが知られているが、その元になるお経がインドにあった。『撰集百縁経(avadaanashataka)』と、『餓鬼事(petavattu)』である。前者では目連が通りがかりに500人の餓鬼と会い、後者では舎利弗が4つ前世での母だったという餓鬼と会う。そして救うための供養は、王舎城の縁者やビンビサーラ王によって行われている。『盂蘭盆経』では目連が母のために自ら供養するという話が、出家者として辻褄が合わなかったが、これなら納得がいく。中国撰述とはいえ、全く根拠のないものではなかったのである。
さらに驚くべきことに、釈尊は先祖が餓鬼道に落ちたときのみ、供養が有効であることを述べている。『増支部』ジャーヌッソーニ章で、天人・人間・畜生・地獄にはそれぞれの食べ物があり、布施の功徳はためにならない、餓鬼も餓鬼の食べ物があるが、友人知人・親族縁者が人間界から「かれらのために」と布施することによっても生き長らえるので、布施の功徳が役に立つと説かれる。
著者はこれを解説して、地獄では人間界とのコンタクトが取れないので、回向に気づいてもらえないとする。回向とは、功徳のやり取りをするのではなくて、善行為に対して心(喜び)が共鳴することだと考えるためである。この功徳回向=心の共鳴という観点から、お盆・お彼岸・葬儀・法事などでの先祖供養も釈尊の教えに適うものであるとしている。
心の共鳴については論証が十分とは言えず、著者の独断だけでなくもっと幅広い観点からの検証が必要だが、釈尊が先祖供養を餓鬼道に限定していたという指摘は特筆すべきである。近年、曹洞宗では施餓鬼を施食と言い換える運動があるが、餓鬼以外に施すことができないのであれば、施餓鬼は施餓鬼でしかないことになる(それを承知の上で、施食と呼んでもよいのかもしれないが)。
もっとも釈尊の教説も、取りようによっては先祖が苦しんでいると脅して布施を強要していると見られなくもない。誤解のないように伝えるのは難しい面もあるが、法事やお盆の意義を再考する貴重な機会となった。

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