よく『眼蔵』はわからないと言う人がいるが、それは事情が違う。『眼蔵』がわからせないのだ。わかる『眼蔵』は無い。その不在が『眼蔵』を問うことを強い、『眼蔵』そのものが「問い」として呼び起こされる。
『眼蔵』は問われることでしか存在しない。ならば、『眼蔵』を読むとは、「正解」がないままに問い続けるという徒労に耐えることだ。それはまさに釈尊の「正法」が現世で持つ構造なのである。(332ページ)
『正法眼蔵』を「本証妙修(修行によって本来の悟りが現れる)」パラダイムで読むことを本質/現象二元論であるとして拒否し、変わって「縁起(修行によってものの生起を再構成する)」パラダイムを打ち出す。例えば「現成考案」はあるがままで何不足ない真実ではなく、現にそうなっている存在を問い続けることと捉える。
このパラダイムで読まれる『正法眼蔵』の説は、インド仏教が打ち出したapoha(言葉の意味=他のものからの排除)や、arthakriyaa/savyaapaaravaada(真実=役に立つこと)に通じ、道元が(もしかしたら著者の南氏も)読んでいないはずのこうした経論と同じ哲学に達していることに驚きを禁じえない。
ただ話は存在や世界の分析で留まらず、実践的な修行論に及ぶ。道元が導いたような問いの仕方を身につければ、ものの善悪まで判断できるようになってくるというわけだ。哲学が倫理につながっていくという論の進め方は、これまで気がついたことがなかった。
道元が不落因果、不昧因果、撥無因果、深信因果というときの一見相互に矛盾する因果の捉え方は、長く教団を悩ませてきたが(悪しき業論など)、修行の方法という捉え方で見事に解決されている。実体視された因果関係(誰も逆らえない天の法則みたいなもの)は否定され、修行の方法としての因果関係(修行への意志と教えへの確信を促すもの)は肯定されているというわけだ。
お世辞にも読みやすい本とはいえないが、じっくり時間をかけて言葉を噛みしめ、定期的に何度か読み返したいと思わせる本。