『〈問い〉の問答―同時代禅僧対談』

現代の仏教について自分の言葉で刺激的な発信を続ける2人の禅僧がついに出会うべくして出会った。生と死、言葉と世界、自己と他者、修行と菩提……こうした一件対立しそうなものの境界線上にあるものをじっくり語り合う。
僧侶の法話というと、悟ったようなふうの話が多いものだが、この2人は安易な答えを出さずにひたすら問い続ける。それは、答えがひとつに決まらないことが「無常」ということだからであり、絶えず変わっていく自分をしっかりと見つめ続けることだからである。死とは何か、言葉で言い表されないものとは何か、僧侶であるとはどういうことか、人間は慈悲ができるのか、宗教が今できることは何か、正法とは何か?
僕はですね、徹底的に相対化を止めない、裏切り続ける―つまり、「無常である」という言説を教えとして実現するには、一定の立場を常に自分で破壊していくことがぜったいに必要なんだろうと思うのです。(p.95)
偉い僧侶が「仏の慈悲、菩薩の慈悲はありがたい」などと言いますが、そんなことはどうでもいい。「そういうあんんたの慈悲は何なのか」を聞きたいわけです。(p.167)
方便や願生は一般に「ほかにも道があるけれどもそれを選ぶもの」と捉えられているが、これを「それ以外に選択肢がないことを引き受ける」という南さんの考えは心に残った。これが他者と強く結びつく大乗仏教の根本に関わるところである。
そのとき僕が思うのは、方便というものの厳しさです。「嘘も方便」みたいな言い方があるから、適当にやっていいのかと思うと大間違いでありまして、方便と〈全責任を自分に置いてやる〉という、一種の賭けなんですよ。(p.131)
「願生する」ということも、それは「好きにしていいんだよ」というようなものではなく、そこにしか行くところがないという状況で「わかりました」と引き受けて娑婆に生まれた、ということだと思います。(p.202)
現代の諸問題についても積極的な発言が見られるのもこの2人ならでは。釈尊、中論、法華経、般若心経、道元、親鸞、良寛をどう捉えるかという教義的な問題についても考えを深めるつつ、ある場面ではその博識を投げ捨てて一人の人間として同じ時代を生きる人々と共に歩み、共に考えようとしている。
〈個性〉というのは、やはり褒められる部分しか意味しないわけですよ。そうなると、子供は自分のなかの褒められる部分だけしか表に出せないから、分裂していく、それはとうぜんです。(p.236)
けれど、これは理屈ではない。なぜ自殺しちゃいけないのか。かくかくしかじかなんてことは、ぜんぶわかったうえで自殺するんですから。自殺する人間は、自殺しちゃいけない理由も、生きなきゃ理由も全部わかっている。(p.246)
この2人の対談自体がそうだが、ひとりで悩むよりも多くの人と出会うことが新しい局面を開いていく。本当に自分と問題意識を共有する人にめぐり合うことができたならば、自分の言葉はまっすぐその人の心の中に届くはずである。
お坊さんで、すぐお金の話をする人と、質問をいやがる人、「自分の寺は立派だ」みたいなことを言う人とは、長い付き合いはしないほうがいいと言います。だけど、そうでなかったら、とにかく誰でもいいから、お坊さんとお友達になりなさいよ、ということは言います。(p.312)
グサグサと心に刺さる言葉ばかりで、普段あいまいに思っている自分の中の〈問い〉を新たにすることができた。宗派問わず僧侶の方に一読をお勧めしたい。僧侶以外にも、生きること一般に苦しみを感じている方にはぜひ。癒しは得られないかもしれないが、自分の苦しみを読みながら聞いてもらっているような感覚になるはずだ。

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