東京ボーズコレクションで聞いてきた話だが、現代の死生観に大きな影響を与えているものとして全死亡者における後期高齢者(75才以上)の割合と、病院で亡くなる人の割合の急増があるという。9割近くの人が長生きして最期は病院で息を引き取る。
そうなると家族の死とはいえどこか他人事のようになる。「予期悲嘆」といって、亡くなる前に死を予期して悲しんでいるために、葬儀ではあまり悲しめなくなるのだ。そのため亡くなった人は大往生だったと締めくくって、やけに陽気な親戚の懇親会になってしまうのである。
懇親会自体はそれでよい。いまどき、葬儀か法事でもなければ親戚が一堂に集まる機会も少ないだろう。しかし家族の死が他人事なのは問題だ。家族は人間関係の基本。親を敬い、長年の労苦に感謝して送り出さなくてはならない。
そこでどこか他人事のようになっている家族に、大切な家族を亡くしたことにもう一度思い至ってもらうのに効果を上げているのが追弔御和讃だ。
一、その名を呼べばこたえてし 笑顔の声はありありと
今なお耳にあるものを おもいは胸にせき上げて
とどむるすべをいかにせん 溢るるものは涙のみ
二、立ちては昇りのぼりては 哀しく薫ゆる香(こう)の香(か)に
かずかず浮かぶ思い出よ 供えし花はそのままに
霊位(みたま)の座をばつつむなり 清きが上に清かれと
三、一世の命いただきて 会うことかたき勝縁(えにし)をば
夢幻となどかいう うつつの形(かげ)は消ゆるとも
うつろうものか合わす掌に 契りて深き真心は
身近な人が亡くなったとき、この曲を聴いて涙しない人はいるまい。枕経で唱えるもよし、火葬場で唱えるもよし、いい曲である。御詠歌仲間には、この曲を唱えて遺族のすすり泣きが背後で聞こえてくると、心の中でガッツポーズをするという人もいる(それは冗談だろうが)。
あまりに悲しすぎるので、若い方が亡くなったときには唱えないほうがよいと先生に教わった。逆に言えば、大往生と言われている方の前でお唱えするのは相応しい。
すっかり年を取ってここ数年は介護のことしか思い浮かばない。でもこの曲を聴いて若かりしあの頃を思い出してみよう。嬉しかったこと、怒られたこと、悲しかったこと、楽しかったこと。全てがもう二度と返らない過去のことなのである。あんなにたくさんお世話になったのに、私たちは何のお返しができただろうか。今私たちにするべきことは……。
葬儀は故人にとっても遺族にとっても、この後明るく幸せに生きる道につながるひとつの転機である。それをただ儀礼的なものに終わらせず、意義を絶えず明らかにしていくのは僧侶の役割だと思う。
『追弔御和讃』(2007年録音、mp3ファイル)