妻子を捨てて修行に出た釈尊の姿が示すとおり、仏教は結婚や家族の絆を否定するところから始まっている。お葬式の授戒で一番最初に、
流転三界中 恩愛不能断
棄恩入無為 真実報恩者
(苦しみでしかないこの世に輪廻している間は、家族や世間との絆を断ち切ることができない。
そこで家族や世間との縁を切って修行の世界に入ることこそが、本当の恩返しになるのである)
と唱えるのもその伝統を引き継いだものである。愛する者との絆は愛別離苦のもとになるし、愛しない人との絆は怨憎会苦のもとになる。
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人と会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人々もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。(ダンマパダ)
しかし日本仏教は、この伝統に逆らって僧侶の結婚を容認した。これによって日本のお坊さんは確かに俗っぽくなってしまったが、これは大乗仏教を推し進めた一種の宗教改革だったと、私は思う。
大乗仏教では、自己の完成よりも他者の救済に重きを置く。救済するには、同じ立場になって苦楽を分かち合わなくてはならない。釈尊も、妻子との別れを経験したからこそ愛の苦しみを説くことができたのであり、もし生涯独身だったならば、在家信者に対して語る言葉をもたなかったのではないか。
カトリックの神父に対し、プロテスタントの牧師は結婚して家庭の範を示すという。日本の僧侶もかくあれかし。範を示すというのは、決して高いところに立って威張ることではない。衆生にとけ込み、同じ目線でものを見、一緒にものを考えながら、悟りの道を模索していくのだ。
『結婚讃歌』
(一) かりそめならぬ天地の 正しき人の道なれば
尊さ胸に溢れつつ 今日を迎える喜びよ
(ニ) 仏のおしえ父母の めぐみに深くつつまれて
はぐくみ来にし玉の身を ささげまつらん真心に
(三) 二人のいのち結ばれて 一つに燃える幸福を
希望の明日にかざしつつ 強くやさしく生きてゆく