セレモニーホールには仏がない

千葉に住む檀家さんの葬儀に行ってきた。といってもつくばからなので往復2時間ちょっと。通夜ぶるまいで遺族とじっくりお話してから帰宅でき、翌朝は長女を保育所に送ってから葬儀に向かうことができた。保育所に衣で行くのは初めてだったので、先生方は目を丸くしていた。
今回の通夜・葬儀は当然のようにセレモニーホール。住職研修会で、宗務所長から「葬儀はなるべく自宅かお寺で。セレモニーホールはやむを得ない場合のみ」という声がけに共感して以来、無意識に身構えるようになった。
会場に到着してすぐ祭壇をチェック。花いっぱいに飾られていて風流を愛する故人らしいと思ったが、中央奥に本尊がない。
「仏様は、ないのでしょうか?」
「は?(仏様=棺の中の故人と思っている葬儀屋さん)」
「えーと、本尊様のことです。お釈迦様。」
「あぁ…でもこの辺りのご寺院様方は、皆このような祭壇でやっていらっしゃいますよ」
皆がやっているから従うという理屈は、日本人らしいと言えるが私はあまり好きでない。学校などの集団生活でなら理解できるが、ここは宗教の場だ。
ちなみに、ここで葬儀屋さんが「うちは上座部流でして(初期仏教の図や彫刻では、釈尊の位置は空位になっている)」なんて返してきたら意気投合したかもしれない。
「それは、(ほかのご寺院さんが)見て見ぬふりをしているか、(本尊の必要を)御存知ないんでしょう。ないんですか、ご本尊。」
「ありません……」
我ながらずいぶんきついことを言ったものだとすぐ反省。
「いやいや、確かめたかっただけです。どうぞ気になさらないで下さい。すみませんでしたね。」
山形のセレモニーホールでは祭壇中央の奥は神棚のようになっていて、本尊が入っているのかもしれないが扉で隠されている。宗派によって本尊を変えるのがたいへんなのかもしれない。
しかし葬儀を通して私が合掌や礼拝をするとき、その対象は故人ではなく本尊である。「どうぞ、この方をよいところにお導きください」と思いながら合掌礼拝する。本尊が中央にないと、どうしても気持ちを集中できなくなってしまう。
自宅(仏壇がある場合)やお寺には、ちゃんと魂の入った本尊がある。その前で行ってこそ、果報が生じるというものではないだろうか。今度セレモニーホールだったら、マイ本尊を持ち込もうかな。


本尊がなければ葬儀ができないという立場には、一切皆空の立場からも反論できるでしょう。「魂の入った本尊」って、魂って何よ?という問題です。
これに対しては以下のような答えを考えました。一切は空であるというのは真理だが、それは虚無ではなく、さまざまなものが複雑な因果関係(縁起)で絡み合っているのである。その外側に本尊を立てて混沌とした世界を見つめなおし、指針を得るのは大切なことではないか。そのため、式場には本尊がいると見立てる必要があり、その見立てた状態を「魂が入った」と呼ぶのであると。そんな風に考えてます。

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