『仏教vs.倫理』

「人間」のルールである倫理だけでは回らなくなっている現代、死者という他者を媒介にして超・倫理を模索する試み。
……と書くと何やらオカルティックだが、亡くなった家族や知己のことを思い出して、自分の生き方に何らかの指針を与えるということは、多くの人がしていることだろう。物言わぬ故人は、その沈黙によって我々に行動を迫るのである。
筆者はこの態度に根拠を与えるものとして、『法華経』を提示する。法華経では釈尊が過去から未来にかけて他者として関わり続ける死者として捉えられ、菩薩を媒介にして我々衆生に関係を迫る。
でも話は仏教を信じれば万事解決ということでは決してない。現状肯定によって社会差別や戦争参加を促してきた本覚思想を批判し、大乗仏教の説く慈悲にも満幅の信頼を寄せず、「死者を食い物にする」ような現状のままの葬式仏教も否定する。仏教もまた、問題を洗い出し鍛え直さなければならないのである。
日本において死者と長い間向き合ってきた仏教にとって、葬式仏教自体は決して否定されるものではないという。むしろ死者の声を聞きとり、生者との共同できる体制を作るためにきちんと考え直し、哲学を打ち立てることが大切であると。
理念だけではない、実現可能な方策を、釈尊を含むあらゆる権威を排しながら謙虚に、しかし強かに考究する態度は引き込まれる。また論考の途中で言及される清沢満之、毎田周一、高木顕明、島地黙雷、田辺元など、あまり知られていない近代の仏教思想家・哲学者の思想と活動、広範な経典や禅語の引用、神道や戦争問題とのかかわりも興味を喚起され勉強になった。現代仏教学は多岐な分野にわたる学際的なものだと思うが、ここまで幅広くできる人はそういるまい。
仏教学者にとっても、僧侶にとっても、読んだら何かせずにはいられなくなるような、刺激に満ちた本である。

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