『般若心経』という仏教で一番メジャーなお経があるが、これは『大般若経』全600巻を要約したものである。唐の三蔵法師玄奘が漢訳したもので、そこには世の中のあらゆるものが「無」「不」「空」といった言葉で否定され、その先に最高の智恵「般若波羅蜜多」が説かれる。
『般若心経』に「能除一切苦」という文句があるように、このお経は読むだけで功徳があるとされ、宗派を超えて祈祷に用いられてきた。ところが600巻を全部読んでいたところではまる1日でも終わらない。そこで本をパラパラとめくって目を通す「転翻」という方法が取られている。
私が住職を務めるお寺がある地域でも、大般若の祈祷が行われている。毎年1月9日に行われる新春恒例行事だ。隣のお寺さんと1年交替で行っており、2年に1度当番が回ってくる。今年は私が住職になって3回目の大般若会というわけである。2回目の様子はこちら。
今年は2回目の備忘録を読んでから臨んだこともあり、全体を見渡す余裕が出てきたと思う。それでもインドに行っていた3ヶ月間、衣に袖を通さなかったブランクは大きかった。直前になって、何か足りないような気がしたら、侍者の和尚さんに「坐具は…」と言われて忘れていたことに気付いた。葬式などでは使わないので奥にしまったまま。忘れたまま法堂に出ていたら大恥をかくところだっただろう。
前回問題になった浄道場は、導師が出ていくのがこの辺の通常だという。今回私はすぐ出ていったが、他に出るべき和尚さんが忘れて座ってしまった。声をかけられて気がつき、やっと出ていらした。この辺はまだよい。
次に問題だったお札の薫香は、また失敗。せっかく侍者さんが出てきて待っていて下さったのに、第一ケイスで出ようとしてこちらも自位で待っていたため、侍者和尚さんが目配せをしてきた。こちらは「そこで待っていて下さい」という意味で頷いたのだが、それが「お札の薫香はありません」と解釈され、侍者和尚さんが下がってしまう。これでタイミングが合わず、薫香できないまま。予定では知殿和尚さんに出てもらって、薫香の後仏前に上げてもらおうとも思っていたのだが、知殿和尚さんは座ったまま。
打ち合わせの時間はあったが、遠慮してしまってイニシアチブを取れなかったのが敗因だ。そのうち集まったご寺院さんたちは新年会の日程を相談し始めてしまった。一番若いうえに、久しぶりですっかり気後れしてしまったが、こんなようでは一山の住職は務まらない。
そのほか般若経の数が等分に配られていなかったので、終わりが揃わなかったりもしたが、全体としては大きく崩れはしなかったと思う。経験豊かな侍者和尚さんに全て支えてもらったかたちだ。この方がいなかったら、かなり危ないところだっただろう。
終わってからは寄付を集めてくださった寺役員さんたちと新年会。住職の長期不在でも、しっかり寺を支えて下さっているのを感じて複雑な思いになった。檀家さんの中には、住職が帰ってくるまで死ねないと頑張っておられる方もいるという。その厚い信心に応えるのが、住職として一生を費やすべき責務なのだと、強く心に刻み込んだ。