講演会

大学内の郵便局 いつもは西門から入るが,北門から入ってみる.後で地図で見たが完全に遠回り.20分くらいかかった.でも大学内にある郵便局が思いのほか近い.日本宛に葉書を出した.
 日本はもう民営化する前から非常に愛想がいいが,こちらの郵便局は事務的.切手の窓口に人がいないとき,隣の窓口で暇そうにしている職員に言うと,「切手はとなり.」と言って取り合ってもらえない.しかも切手の窓口の職員が来ないこと来ないこと.タイミングが悪いと30分くらい待たされる.窓口の前に切手を買う人の群れができあがるが,みんな我先にと割り込むのでカオスだ.日本へは葉書が1通8ルピー(20円).でも8ルピー切手はなく,4ルピー切手を2枚買う.今日はその4ルピー切手もなく,2ルピー切手を大量に購入することになった.知らないおじさんの怖い顔が印刷されている.
 今日はライプツィヒ大学のラルス・ゲーラー博士による講演会.テーマはプールヴァ・ミーマーンサー(ミーマーンサー学派)というヴェーダを合理的に解釈して正しい祭式の方法を求めた学派.ドイツ人というだけでなぜか楽しみにしていたが,講演会に来てみるとこの1,2週間図書館でよく目にする西欧風の人がゲーラー博士だった.こんなことならもっと早く話しかけておくんだった….
 内容はというと,解釈学といわれるミーマーンサー学派がいかに哲学的かという話.文法学派の影響を受けつつ,祭式の記述からメタ・ルール,メタ・ルールから意味論的分析へと昇華されていく.元はといえば「どのようにして祭式を行うか」という点について各地方でいろいろな見解があり,それを一本化するためにヴェーダを根拠に説得力のある解釈を示したわけだが,ここに哲学的な発展を見てとることができるという.
 1時間という時間では立ち入った話までは行かなかった.その後ディスカッションとなり,ジャー先生が「もともとミーマーンサー学派は文章の意味を探求する教え(ヴァーキヤアルタシャーストラ)だから,その展開は至極当然である」とまとめてしまった.後代に認識手段の議論が深まるのもあくまでその流れであるという.これにはゲーラー博士も反論したいようだったが,ここまでテーマが大きいと何ともいえない.というわけでおひらきになった.
 確かに初期のミーマーンサー学派は,解釈学に専門化していたと思う.しかし後代に認識手段の議論などを取り込んだのは,解釈学からの必然性があったからなのだろうか.学派が独立してやっていくために当時備えるべきトピックを揃え,それについて独自の見解を打ち出す必要があったからではないかと,私は思う.クマーリラの時代には,明らかに解釈学からかけ離れたトピックがある.ミーマーンサー学派の「色気」というか,「食っていくため」というか…
 終わって立ち話をしていると,保健センターでヨーガを教えているという先生に会った.サンスクリット語で話しかけてきたのでこちらもサンスクリット語で返す.3ヶ月間,朝8時からか,夕方6時から行われる.実習だけなら300ルピー、講義と試験も入れたヨーガ講師資格コースなら3000ルピー.坐禅とヨーガは親近性があり,一度見学してみようと思う.
 帰ろうと思ったら前輪の空気が抜けていた.振動でねじがゆるんだようだ.いつものバイク屋まで自転車を引き,帰りが30分余計にかかった.

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