国境管理事務所が6時から開くと聞いたので今日もまた5:30朝食,6:00出発.運転手のほうは昨日と同じ手続きなのでテキパキと,しかし1時間ほどかかっていた.そろそろ手続きが終わるかというとき,ネパール帽をかぶった警官に声をかけられる.ラコステのTシャツなどを着ているのでまた売り子かと思ったが,帽子が公務員の目印らしい.話を聞くと,外国人だったら車の手続きだけでは不十分で,各自入国ビザを取らなければならないと言う.そこで手続きが終わった運転手に待ってもらって再びインドの事務所へ.入国手続きの前に,インドで出国手続きをしなければいけないという訳である.
インドの出入国管理事務所は道端にあって警官が2,3人.小島さんと円実さんの手続きは問題なくいったが,私のところで止まってしまう.私のインド入国ビザには「14日以内に登録が必要」と書かれている.これはプネーに住民登録をするという意味で,警官に住民登録証を見せた.「これではない.登録というのは,ネパール入国許可の登録だ」などと言ってくる.ネパールに入りたかったら,今からプネーに帰って,許可を取ってこいという.そんな無茶な!と目の前が真っ暗になった.multiple
entry(期間中何回でも出入国できる)のビザだと言っても警官はきかない.挙句の果てに「こういう許可証が必要なんだ」とそれらしい書類を出してくる(後日わかったことは,デリーかムンバイならば許可証なしに出国できるが,それ以外では居住地の警察で発行された許可証が必要とのこと).
ここで小島さんが,「我々は3人で旅行しているんだから,一緒に通してもらえないと困る」とそっと袖の下500ルピーを渡す.警官は何食わぬ顔で「次からは許可を持ってくるように」なんて言ってハンコを押してくれた.日本だったらどちらも罰せられるような行為だが,インドでは当たり前のようにまかり通っている.ともあれ難関を脱して心軽やかにネパールに入った.
一方ネパールの出入国事務所はとてもスムーズ.ビザも3日以内に戻ってくる場合なら無料.インド人の狡猾さとネパール人の誠実さを一度に見た気がした.この手続きに結局また1時間かかり,合計2時間も足止めを食ってしまった.一行はネパールに入り,ルンビニへと向かう.国境からルンビニへは30〜40分ほど.
あなうれし 花の御園に みほとけの
生(あ)れしよき日ぞ 讃えまつらん
ルンビニはマヤ夫人がお釈迦様を産んだところだ.生まれてすぐ7歩歩き,右手は天を指し,左手は地面を指して「天上天下,唯我独尊」とのたまったとされる.事実そうだったのだろうか,後世の作り話ではないだろうかなどと考えてはならない.人々の心の拠り所となってきた伝説の重みを蔑ろにしてはならない.また,「唯我独尊」を,「お釈迦様だけでなく人は誰でも尊いものである」とする解釈があるが,私はこれに賛成しない.お釈迦様の尊さは,仏教徒にとって他の何かに代えられるものでは決してない.
中央には大きな寺院があり,その中に遺跡がある.イスラム教徒によって顔を削り取られた像と,お釈迦様の実在を証明したという仏足跡がガラス張りで保存されていた.寺院の周りにはマヤ夫人が産むときにつかまったというアショーカの木,沐浴池やアショーカ王柱の復元(ちゃちい)があり,全体に明るい感じになっていた.誕生というのは誰であれ喜ばしいものである.
博物館は日曜のみ開館.周囲には日本人の建築家が作った計画に基づいて各国の寺院がまさにお寺を作っているところだった.「総教日本」という日本のお寺もある.敷地内に店はあったがインドと違って売り子は全く寄ってこなかった.ネパール人の顔つきは日本人に近く,何となく好感が持てた.
さて次はネパール側のカピラヴァストゥ.ルンビニから30キロぐらいにあり,現在はティラウラコットと呼ばれている.行ってみるとルンビニ開発局の職員が入り口にいて案内してくれた.
現在は東門と西門の跡が残っているという.東門はお釈迦様がここから出家したという門だ.目の前に広がる広大な風景を見ながら,妻子を捨て,何もかも捨ててここを出たお釈迦様の気持ちを察して複雑な気持ちになった.
両方見た人はたいてい,ネパール側の方が本物のカピラヴァストゥだと思うそうだが,私もそう思った.平地のインド側のカピラヴァストゥと比べて,ネパール側は起伏があり,お城に近い.2500年も経っているのでそれだけでは何とも言えないだろうが,雰囲気はよく出ている気がする.しかしネパールはお金がないと見えて,発掘はほとんど行っていなかった.
夏草や つはものどもが 夢の跡
さらにその雰囲気を強めたのが帰りに寄ったお釈迦様の両親の廟である.もちろん後世に建てられたものであることは間違いないが,ここでは今もなお,現地の人によって供養が行われていた.我々が来るから見世物として始めたのかもしれないが,とにかく供養が行われていることにかわりはない.
もはや当時の面影を残さない仏蹟は,他の遺跡と違って信仰の対象でもある.ここに現在進行形で供養が行われていると言うことは,一生に一度訪れるかの私たちにとっては非常にありがたいことだと思った.
入り口に戻ると子供たちがわんさか集まっていて,群がるようにお金を要求してきた.子供は正直なものだと思ったが,周囲の家の作りを見ると,インドの寒村以上の貧しさが感じられ,可哀相に思われた.
ここにも博物館があるらしかったが,ディワーリー(現地ではラクシュミープージャーと言っていた)のため休み.帰りはルンビニにある法華ホテルという日本のホテルで昼食.日本の高僧が泊まるのだろうかと思うくらい,この場所に似つかわしくないたたずまい.宿泊費も食費も,東京都内のホテル並みだ.和室には畳敷きに布団がもう敷いてあり,その上きれいに掃除されていた.大浴場もある.レストランでは天ぷらなどの日本食もある.1991年にできたというからバブル全盛のころだろうが,12年経った今も手入れが行き届いているのが不気味なくらい.オーナーも客もほとんど来ておらず,40人ほどの従業員がどうやって食べているのだろうか心配になった.
ネパールからの出国は簡単だった.ネパールの事務官は,「今度はネパールでもっとゆっくり過ごせるように来て下さい」と心温まる応対.その一方で賄賂をもらったインド警官は何食わぬ顔で応対,感謝しろと言わんばかりだったのが,少し頭にきた.
とはいえネパールは平和な国では決してない.ゲリラがいるらしく,道で何度も検問があった.しかも銃を構えた兵士がドラム缶越しに銃口をこちらに向けていたのが恐ろしい.
国境を越えて一路お釈迦様涅槃の地クシナガルへ.しかしまたタイヤがパンク.近くの村でタイヤを修理してもらっている間チャイを飲んで過ごす.珍しい外国人の訪問で,医者だという人が見にきた.今日はディワーリーだけど仕事はしていると言っているそばから,お呼びがかかって帰っていった.彼の仕事場は道向かい.薬局みたいな小さな小屋があるだけだったので,「医者なのか?」と思って行ってみると,その小屋の中で女の子に注射をしていた.怪我をして抗生物質を打っているらしい.注射が終わってディワーリーの灯りを準備をしているところに,「喉が痛い」と言ったらその場で診察して,青いタブレットを出してくれた.インドの風邪薬は強くて胃腸をこわすと聞いていたので辞退したものの,こういう村医者が日本にもいたらいいなと少し思った.
途中何度か踏切で止まったが,インドには踏切の有名な話がある.遮断機が降りると,車は右車線にもどんどん入っていく.遮断機が上がったときにすぐに出発できるようにするためだ.しかし踏切の反対側でも同じことが起きている.その結果どうなるか.遮断機が上がったとき,どちらも道路が全車線ふさがっていて車が少しも前に進めなくなってしまうのだ.それでもインド人はつい右車線に出てしまう.自分だけは大丈夫だという信念が,インド人の特徴なのかもしれない.
この村で日が暮れてしまい,夜道を走ることに.無灯火の自転車が至るところに走っているし,街ではディワーリーで皆騒いでいるので人を跳ねはしないかとヒヤヒヤした.だがどの家でも小さいろうそくをたくさん点してディワーリーのお祝いをしている.電気もろくに通っていない村に,ろうそくの光が無数に浮かび上がってくるのは非常に美しい風景だった.