イッセー尾形のひとり芝居を見に行く。「意地悪ばあさん」の巡査役で出演していたころからだいぶ経つはずなのに、見たところまだまだ若い。それでも中年男性の役ははまりにはまっていたけれど。
人間をミクロな視点でとらえるのが大好きだ。歌手のブリーフ&トランクス(「青のり」)、嘉門達夫(「小市民」)、漫才のテツ&トモ(「何でだろう?」)、そして芝居のイッセー尾形。「あるある」という既視感が笑いにつながり、それが微妙であればあるほどおかしい。
2時間ちょっとの舞台で7つの人格が演じられた。ひとつ終わるごとに服装を替え、まるで別人に。口調も仕草も、がらりと変わってしまうだけで見ものである。
それぞれ出てくる人物は有名人でもなんでもなく、身近にいそうな人ばかり。自分はどのタイプに近いかなどと考えてしまいそうなほど身近だ。しかも大事件が起こるというわけでもなく、ごく普通の日常生活を切り取ってきたような場面。
それでもそれぞれの人にはちょっとしたこだわりやプライドがあって、それすらもなかなか叶えられない中で一生懸命になっている。それは自分に通じることでもあり、芝居が終わって照明が落ちると目頭が熱くなるような思いに駆られた。
「何でこんなつまらないことにこだわっているんだろう?」
「いやいや、つまらないことではないはずだ」
「いずれにせよ、オレはこういう生き方しかできないんだ」…
そのうちに、まるでキャラクターの異なる7人の人間が皆同じように見えてきた。ひとり芝居なのだから当然といえばそれまでだが、それで、この世に生きる人間が皆あるところまでは共通なのではないかと思わせた。
ひとりでたくさんの役ができるならば、たくさんの人が同じ人間であってもいいだろう。
だが「みんな同じ人間」とはわかっていても、「人間としてどのように同じなのか」はあまり考えたことがない。人間とは頭があって、心臓があって…などといった外見的な共通性は言えるが、内面的な共通性となるととたんに難しくなるものだ。しかしそれを分かっていないと人同士の意思疎通はできないかもしれない。この点は考察に値する問題である。