『インド哲学七つの難問』 宮元啓一著 講談社メチエ 2002年11月
このところ途中で挫折するか,つまみ食いで終わる本が多い中で久しぶりに一気に読み終えた.もちろんニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派という専門的な内容に踏み込んだ箇所では,前提となる知識なしに読み進めるのはたいへんかもしれない.
昨年末に京都で開かれたインド思想史学会でも誰かが言及していたが,宮元先生がまえがきで「インド哲学」の主流である地域研究や文献学を飛行機の滑走路作りに,そこから飛行機を飛ばすことを哲学に譬えたところはとても印象的だった.インドの本はテキストの問題(誤植や改変)が多く,したがってその校訂作業が研究の大部分を占める.書いてある内容よりも先に,書いてある文字を疑ってかからなければならない.同じ用例を他から隈なく探し,もともとどう書かれていたかを推定する.根気の要る作業だ.
インド哲学研究を志した人のほとんどは,飛行機で自在に空を駆けることを夢見ていたはずである.ところが,そのほとんどの人は,その夢を忘れ,滑走路作りで一生を終えることに人生の意義を見出してしまう.
もちろん宮元先生は,滑走路作りが不要だと言っているのではない.事実,先生の仕事は『勝宗十句義論』という,漢訳しか残っていないテキストを,時代が近い現存のテキストとの比較からサンスクリット語に復元するという,緻密な校訂から始まっている.要は文献学と哲学を両立させることなのである.中途半端な文献学で中途半端な哲学をしている私には非常に耳が痛い.
さてこの本に現われる7つの難問として設定された問題は,「音声は恒久的なものか無常なものか」「神や一切知者は存在するか否か」といったインド独特の問題ではなく,西洋哲学にも通じる言語哲学,存在論,自我論,真知論,因果論である.こういった切り口でインド哲学を解説する本は未曾有であり,刺激的だった.
我々の読書会などで「この人の言ってることって,どう考えたっておかしいよね」という話になることはある.しかしそれが論文に反映されることはまずない.どこがおかしいのかを論証するのは案外難しいし,若い学者が「おかしい」と公言すると何かと厄介だからである.そうした我々の生の意見が的確な言葉で表現されていて,溜飲が下がる思いがする.ところどころにさりげなく書かれている,仏教徒として仏教の無矛盾性を信じて疑わない仏教学者批判も痛烈.「無我はありえない」というくだりなど,仏教徒全般にもう一度考え直したいことでもある。
ところどころ急激に専門的になるところがあるが,そこを適度に読み飛ばせれば,哲学一般に興味をもっている人も十分に楽しめる内容ではないだろうか.