先日私が尊敬するある老僧に偶然出くわしました。 老僧曰く、「君たち若い人が頑張らないといけないんですよ。このままだと宗門はあと10年で滅びると言われています」
10年は早いと思いますが、そうかもしれないと思わせるような材料が多くなっているのも事実です。
信仰を失って高すぎると批判されている葬儀のお布施、出家者にあるまじき俗物根性や我が侭、誰も意味がわからないまま読んでいるお経などなど、自分でもよく思い当たるだけに耳が痛いところです。
インドや敦煌などで仏教が滅亡したのは、僧侶が自ら破戒を肯定し、権力を手中にするため手段を選ばなかったことが一因でした。そして僧侶は憎まれたり嫌がられたり、馬鹿にされたりするようになっていきます。今、同じことがここ現代日本でも起きつつあるように感じます。
仏教は壮大な伝言ゲームであると言えます。釈尊よりこの2500年間、師匠から弟子という形でたくさんの人の手でここまで伝えられてきました。その中で時代や地域に流され、途中で誰かが間違ったりしてもとの形とはずいぶん異なるものになってしまいました。
しかしだからと言って釈尊の説いた言葉だけを原始経典から拾い出し、それ以外を排除してしまうのは正しくないでしょう。インドとは時代も風土も異なる日本で釈尊の教えを会得しようと努めてきた先人の努力を無駄にしてはなりません。
また、仏法を伝えてきたからと言って先人に盲従することも正しくないでしょう。伝言ゲームの途中で起こった明らかな嘘は調査し取り除かなければなりません。過去に仏教者が部落差別や女性差別に荷担したり、戦争を理論的に正当化して死地に若者を送り出したりしたという事実は大いに反省しなければならないことです。
今目の前にある仏法を排除もせず、盲信もしないで正しく理解するにはどうすればよいか。それが「自分のものさし」です。
ある僧侶の言葉。 「自分のものさしは、他人にあてるものではありません。自分自身にあてるものです」
自分のことを棚に上げて他人の批判をしてしまう。ものごとを他人事のように捉えて自分の意見を押し付ける。それはありがちなことですが、それでは傲慢や不満が増大し、いつまでたっても自分を成長させることができないでしょう。
自身の理性をもって、深く自己を内省する。あるいは自己責任において行動を開始する。仏教はそのときにこそ効力を発揮するのだと思います。簡単なことではありません。痛みを伴うこともあるでしょう。
絶えず内省し自己点検し続けることこそが、仏教者として生きる唯一の道なのだろうと強く感じました。