駒沢大学の池田魯参先生の講演会.タイトルは「只管打坐」である.
まずこの言葉の意味合いからお話は始まった.
1.「まあ坐れ」中国語では気軽な感じもあるという.「とりあえずビール」のようなものだろうか.
2.「ひたすらに打ち坐る」死んでもかまわず坐るという心意気.覚悟と気合が入っている.「坐禅マニア」と言えるだろう.
3.「ただ坐る」俗世とのつながりを断って坐禅を日常のものとする.修行であると同時に悟りの姿であるという.
坐禅によって人はよりその人らしくなるのであり,決して釈尊になるのではない.坐禅をしたからといって得意になってはいけないという戒めである.沢木興道師は「坐禅をしたって,何にもならないよ」とのたまっていたという.得意になった瞬間,坐禅の功徳は消滅する.「不染汚(ふぜんな)の修証」というものである.
そしてこのような坐禅と仏道修行をめぐる中国禅僧の楽しい話が展開された.随所にすらすら〜と出てくる禅僧の台詞はさすが禅学の大家である.彼らはみな破天荒である.言葉を誠実に使っているのか,適当に弄んでいるのか全くわからない.だいたい,仏の教えを正しく押さえた上で弟子に伝えているのかも疑問だった.仏教にはこれが正統であると呼べるものなどないと言ってしまえばそれまでなのだろうか.釈尊に倣った修行をして,その結果ある程度深い宗教体験し,それをインパクトのある言葉で表現したら,歴史に残る名僧のできあがりである.
そもそも,どんなに気をつけても間違いや過ちを犯す人間たちによって伝えられてきたものに,如実・完全無欠という意味での「正しさ」を期待すること自体無理である.「正しさ」とはそれぞれの時代の生きる人々にどれだけよい影響を及ぼしたかという程度の問題に過ぎない.
だから神が必要になるのに,どうして仏教は神を否定して安定していられるのだろう.池田先生は終始笑顔であったが,聞いている私の頭はずっと迷いだらけであった.