先日キリスト教式の結婚式に参列した。聖書では、愛(もちろん神の博愛を指すのだが)が人間生活の基礎として大事にされる。ウェディングドレスがいいというだけでなく、キリスト教が結婚式にふさわしい宗教だということを思い知った。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。また、ねたまない。愛は自慢せず、高慢にならない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、人の過ちを思わない。不義を喜ばず、真理を喜び、すべてをゆるし、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」「愛は決して絶えない。信仰、希望、愛、この3つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリントの書簡)
一方、仏教はというとこんな厭世的なことを言っている。キリスト教で説かれる博愛と違って、これは愛欲を意図したものではあるが、そうだとしてももしこれを結婚式で読んだら大ヒンシュクだろう。
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うもの苦しい。それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか。(ダンマパダ)
にも関らず世の中には結構、仏式の結婚式が存在する。それはなぜかというと、仏教の教義からではなくて「山寺の和尚さん」というようにコミュニティーの指導的立場を果たしてきた僧侶の立場と人格が相応しかったからだろう。
仏教においてキリスト教の博愛に対応するものは恐らく慈悲である。こういった崇高な愛のかたちに、愛欲に縛られがちな人間はどこまで近づくことができるのだろうか?
どこかで聞いたフレーズを思い出しながら、哀れな私。
「愛は与えることである」
「愛、使い古された言葉だけれど今はこれしか浮かばない」
「愛という字は真心で恋と言う字は下心」
2000/12/11(月)