ベロ屋/口坐禅

先日、先輩の和尚さんから面白いジョークを聞いた。
極楽にいるお釈迦様、竿にたくさんの舌を吊り下げて干しているという。この舌は何かといえば、亡くなったお坊さんたちのもの。生前、ありがた〜い話ばかりしていたので、舌は極楽に行くことができたが、それ以外の部分は……
こういう寒い話が好き。いったい出典はどこなんだろうか?
お坊さんの間でも、布教師を「ベロ屋」(舌で稼ぐ商売)と揶揄してみたり、立派な話をした後に「私なんて口坐禅(口だけで坐禅をしている)ですが」などと卑下したりするのを聞く。要するに雄言不実行ということだろう。
しかし、論理的には言っている内容と、それを言った人の行動は関係ない。タバコを吸っている人がタバコの害を説いたって全く構わないのである。それを「そう言うあんたがタバコを吸ってるじゃないか」と責めるのは、的外れな人格攻撃に過ぎない。反対したいなら、タバコに害がないことを主張するのが筋だ。
ただし、修辞学的には人格攻撃は十分ありえる。アリストテレスは『弁論術』でエートス(信頼に足る性格)、パトス(感情の喚起)、ロゴス(証明)という3つの説得手段を立てる。このうちエートスが傷つけられると、ほかの2つを満たしていても説得力を失うことは実際とても多い。
「先祖や親に感謝しましょう」と言いながら自分の親にはつらく当たったり、「お金に執着してはいけません」と言いつつお布施の額をがっちり言い渡したりするのでは、たとえ論理的には別問題だとしても、まともに聞いてくれる人もいるまい。
お葬式のときに亡くなった人に言い渡す十重禁戒(殺さない、盗まない、セックスしない、嘘をつかない、酒を飲まない、人を責めない、自慢しない、ものを惜しまない、怒らない、仏様に不敬の念を起こさない)。このうちいったいいくつ守れているんだろうかと、お葬式のたびに自分にも問いかけている。

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