今日は隣町のお寺で昨年お亡くなりになった住職の本葬に詠讃師として参列。
詠讃師は3名で、『無常御和讃』、『追弔御和讃』、『聖号』を奉詠。あとそれぞれ1曲ずつ独詠があった。私は1番バッターで『妙鐘』。この曲は感情が高ぶりやすいので、いかに感情を抑えつつ奥ゆかしくお唱えできるかが難しい。やはり今日も抑えられず。
住職の葬儀は準備に時間がかかるため、いったん密葬と火葬をしておいて数ヵ月後に本葬を営むことが多いが、今回はさらに年をまたいで9ヵ月後の本葬となったため、一周忌と併修するに至った。全部の法要が終わるまで3時間。一般会葬者はもちろん、いつも座りなれているご寺院様方も途中で足を崩さなければならないほどである。
とはいえ、葬儀の構成は一般の葬儀とあまり変わらない。そもそも一般の葬儀自体が亡僧の葬儀法のコピーなのである。授戒はないが、棺の釘打ち、棺の持ち上げ、葬列の行進、蜜湯のお供え、お茶のお供え、松明による点火と全て省略せずに行うので時間がかかるだけだ。
もっとも大きな違いは、引導の有無である。僧侶は生前に成仏しているとみなすので引導は渡さない。注意深く聞いていたら、松明の儀式で導師が引導の目印である一字関(「喝!」とか)を言っていなかった。
僧侶が亡くなることを「遷化(せんげ)」と言い、来世でも僧侶として生まれ変わり、衆生と苦しみ悲しみを分かち合いながら悟りの世界へ導くとされる。成仏した以上は生死の別を離れているから「死んだ」とは言わない。その命はもはや永遠なのである(というと、ミイラになってるのにまだ死んでないとか言ってた新興宗教を思い出すのだが)。
引導を渡して成仏させる必要がないのに、どうして葬儀を行うのかといえば、「遺された人たちがそうしないと気がすまないから」なのだと思う。遷化された住職への感謝を、最大限の礼節を尽くして表す。そして現世での別れを胸に刻んで、新しい人生を歩んでいく。今日は、3時間にわたる法要が終わると、達成感とともに次への気力が湧いてくるような気がした。
しかし私なんかも「遷化」できるのだろうか? 現世でろくに衆生を導かず、欲のままに精進もせず生きている私がもう成仏しているって……?
本日の遺偈
迂拙一期 八十二年
無得無失 大道現前
私も遷化された和尚様に少しでも近づけるよう精進したい。