経済発展によって急激に先進国の生活を手に入れた中産階級を実例で描き、精神的な空虚からもてはやされる癒しとしてのヒンドゥー教、その背景となる現代インド史とヒンドゥー・ナショナリズムの問題を考察する。
あとがきで筆者は相変わらず日本では「悠久のインド」か「貧しくとも目の輝きをもったインド人」というイメージで捉えられていることにうんざりし、インドをもっと多角的に捉える必要があると書いているが、ミクシィのインド関連コミュニティを見ながら同じことを思っていた私はこの本の切り口に全く共感した。
郊外にある豪華なクーラー付きマンションに住み、夫婦で共働きで子どもは受験勉強。週末は家族でショッピングモールにお買い物。日本人口を超える中産階級が、商業主義が作り出した高級な生活の「イメージを消費」しながらこうした生活に追いかけられている。
そこでヒンドゥー寺院や新興宗教に向かうインド中産階級が多いというのは、「無宗教」の日本とずいぶん様相を異にするものだと思った。信仰が息づいているしるしである。
しかしその信仰心がヒンドゥー・ナショナリズムを助長し、インド社会が掲げる他宗教の共存が危うくなっているのは良し悪しである。筆者は単一論的宗教(自分の信仰する宗教が絶対正しいという立場)から多一論的宗教(真理はひとつでありながら、そこに向かう道の多様性を認め合う立場)への転換を主張しているが、事態はそれほど容易ではない。
私もインドで多一論的な考え方を口にする中産階級によく出会ったが、そういう人は高等教育を受けて宗教を知性的に捉える人、あるいは社会のコードによる「イメージ」でものを語る人に見えた。ベジタリアンが増えているというのも、伝統的な信仰に支えられてではなく、健康面と社会的イメージアップの側面が強い。
一方、ヒンドゥー教を崇拝し身も心も捧げているような人には、その分他宗教を認めるのが難しい。そこにヒンドゥー至上主義が入り込む隙がある。イスラム教でも同じことが言える。
今後のインドは、宗教のモード化と信仰心の薄れによって変わっていくのではないだろうか。ちょうど教育基本法が論議され「宗教心の涵養」などが叫ばれる日本と規を一にしている。
このように問題解決の見通しなど楽観的に感じたものの、現代インドのルポルタージュとして非常に面白い。