お世話になった地元の奨学会に寄稿。偉そうな文章でスミマセン。
再考・何のために学ぶのか
ほんの一握りの富豪と大多数の貧者から成り立っていたインドに、経済発展の波が押し寄せている。都市部ではプール付きの豪華マンションに住まう者が増え、マクドナルド、映画館、デパートがどんどん建ち始めた。その源泉となっているのがIT(情報技術)産業で、アメリカと取引しているコンピュータ関連の企業がどんどん成長している。子どもたちが将来なりたい職業の1位は男女ともプログラマーだ。
そんな中、3000年の歴史をもつインドの伝統的学問は急激に廃れている。国立サンスクリット高等研究センターで私が師事するV.N.ジャー教授は嘆く。「みんな金、金、金。でも私は問いたい。それは何のための金なのか? いいところに住む、うまいものを食べる。それだけで人は幸せなのかと。」
インドの諺に「伝説の宝石を捨てて水晶を取る」というのがある。伝統的学問がめざす崇高な知の探究を諦めて、現世の利益を求めることを指す。確かに哲学的な真理に到達したところで、衣食の足しには全くならない。しかしだからといって金の亡者になりながら一生を終えてしまうのは、はたして幸せな人生と言えるだろうか。
現代ではお金になる学問だけが重宝され、お金にならない学問は切り捨てられる。これはインドだけでなく今や世界中の現象となっている。日本でも国立大学が独立行政法人化され、人文系のお金にならない学問は予算や人員が縮小傾向にある。ここで我々は――大学生やその親御さんだけでなく、社会人なら誰でも――何のために学問をするのかを、しばし立ち止まってもう一度考えるべき時期に来ている。
日本もかつては、義務教育以上の教育を享受できる人はほんの一握りだった。進学したくても家の事情で叶わなかった人がたくさんいたのである。そんな中でも子どもにできる限りの教育を施したいと、親たちは額に汗水たらして働き、中には祖田を売ったり、親戚中から借金をしたりもした人もいる。そんな親たちは教育を単なる投資だと思っていただろうか。子どもが将来お金になると思って教育を受けさせていたのだろうか。そうではあるまい。立派な人間になってほしい、そして幸せな人生を送ってほしい。それこそが子を思う親の願いだったはずである。
しかしやがて経済成長に伴いどの家庭も裕福になってくると、お金はあるのにお金の話ばかりになるという皮肉な事態になってきた。勉強するのがお金のためならば、お金があるならば勉強しなくてもよいということになる。かくして何のために勉強するのかが分からなくなり、何も身につかないからニート(NEET。学校にも行かず、働いてもおらず、職業訓練も受けていない人。Not in Education, Employment or Trainingの頭文字をとったもの。全国に52万人いるとされる)のような若者が増え、人生がなげやりになっていく。その一方で,拝金主義に歪められ、収賄,詐欺,強盗といった金に目が眩んだ犯罪に手を染める者が後を絶たない。「地獄の沙汰も金次第」とはよく言ったものだ。日本の将来を憂う。
そもそもお金のために勉強すること自体が間違いではないのか。インド古代の賢人たちのように哲学的な真理に到達する必要はなくとも、かつての親たちが望んだように、立派な人間になること、そして幸せな人生を送ること、そのために学問があるのではないか。その結果としてお金が生じるのはよい。お金がなければ生活していけないのも真実だし、いい仕事には然るべき報酬がなければならない。だが、お金が目的となってしまっては本末転倒であろう。
お金の呪縛から逃れることができれば、学問には新しい魅力が立ち現れる。世の中が新しい視点で見えてくるかもしれないし、どんな非常事態に瀕しても冷静で正しい行動を取れるようになるかもしれない。嫌いだと思っていた人のことを理解できることもあるだろうし、志を同じくする新しい仲間を作っていくこともできる。つまりは、よりよい自分を見つけ出すことができるのだ。
夏目漱石は、学問をすることによって権力やお金に惑わされず自分を見失わない強さが養われることを次のように説く。
再考・何のために学ぶのか
ほんの一握りの富豪と大多数の貧者から成り立っていたインドに、経済発展の波が押し寄せている。都市部ではプール付きの豪華マンションに住まう者が増え、マクドナルド、映画館、デパートがどんどん建ち始めた。その源泉となっているのがIT(情報技術)産業で、アメリカと取引しているコンピュータ関連の企業がどんどん成長している。子どもたちが将来なりたい職業の1位は男女ともプログラマーだ。
そんな中、3000年の歴史をもつインドの伝統的学問は急激に廃れている。国立サンスクリット高等研究センターで私が師事するV.N.ジャー教授は嘆く。「みんな金、金、金。でも私は問いたい。それは何のための金なのか? いいところに住む、うまいものを食べる。それだけで人は幸せなのかと。」
インドの諺に「伝説の宝石を捨てて水晶を取る」というのがある。伝統的学問がめざす崇高な知の探究を諦めて、現世の利益を求めることを指す。確かに哲学的な真理に到達したところで、衣食の足しには全くならない。しかしだからといって金の亡者になりながら一生を終えてしまうのは、はたして幸せな人生と言えるだろうか。
現代ではお金になる学問だけが重宝され、お金にならない学問は切り捨てられる。これはインドだけでなく今や世界中の現象となっている。日本でも国立大学が独立行政法人化され、人文系のお金にならない学問は予算や人員が縮小傾向にある。ここで我々は――大学生やその親御さんだけでなく、社会人なら誰でも――何のために学問をするのかを、しばし立ち止まってもう一度考えるべき時期に来ている。
日本もかつては、義務教育以上の教育を享受できる人はほんの一握りだった。進学したくても家の事情で叶わなかった人がたくさんいたのである。そんな中でも子どもにできる限りの教育を施したいと、親たちは額に汗水たらして働き、中には祖田を売ったり、親戚中から借金をしたりもした人もいる。そんな親たちは教育を単なる投資だと思っていただろうか。子どもが将来お金になると思って教育を受けさせていたのだろうか。そうではあるまい。立派な人間になってほしい、そして幸せな人生を送ってほしい。それこそが子を思う親の願いだったはずである。
しかしやがて経済成長に伴いどの家庭も裕福になってくると、お金はあるのにお金の話ばかりになるという皮肉な事態になってきた。勉強するのがお金のためならば、お金があるならば勉強しなくてもよいということになる。かくして何のために勉強するのかが分からなくなり、何も身につかないからニート(NEET。学校にも行かず、働いてもおらず、職業訓練も受けていない人。Not in Education, Employment or Trainingの頭文字をとったもの。全国に52万人いるとされる)のような若者が増え、人生がなげやりになっていく。その一方で,拝金主義に歪められ、収賄,詐欺,強盗といった金に目が眩んだ犯罪に手を染める者が後を絶たない。「地獄の沙汰も金次第」とはよく言ったものだ。日本の将来を憂う。
そもそもお金のために勉強すること自体が間違いではないのか。インド古代の賢人たちのように哲学的な真理に到達する必要はなくとも、かつての親たちが望んだように、立派な人間になること、そして幸せな人生を送ること、そのために学問があるのではないか。その結果としてお金が生じるのはよい。お金がなければ生活していけないのも真実だし、いい仕事には然るべき報酬がなければならない。だが、お金が目的となってしまっては本末転倒であろう。
お金の呪縛から逃れることができれば、学問には新しい魅力が立ち現れる。世の中が新しい視点で見えてくるかもしれないし、どんな非常事態に瀕しても冷静で正しい行動を取れるようになるかもしれない。嫌いだと思っていた人のことを理解できることもあるだろうし、志を同じくする新しい仲間を作っていくこともできる。つまりは、よりよい自分を見つけ出すことができるのだ。
夏目漱石は、学問をすることによって権力やお金に惑わされず自分を見失わない強さが養われることを次のように説く。
いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。(夏目漱石『私の個人主義』)
学問によって修養を積んだ者,これこそが理想の社会人ということになる。「ナンバーワンよりオンリーワン」というが、自分を磨き続け、花を咲かせてこそオンリーワンといえるのではないだろうか。
とはいえ、そんなかたちのないものを目標にして勉学に励むというのも容易なことではない。ひとまずはよい成績を取るという目標でもよいし、希望の職業に就くというのでもよいだろう。私の目下の目標は博士論文を提出すること。しかしその先に、自分の人間としての成長という目標をおいて学んでいこう。
そして学問に終わりはない。
少年易老学難成 一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声
(朱子『偶成』)