市内巡り

先週のインド論理学セミナーで感銘を受けたバヴェー先生宅を訪問。他の先生が古代の論理学者の説をかいつまんで紹介するという中で、いかにも哲学科らしく自分の見解を論じていた人だ。とても面白かったので講義の後に論文をもらえないか頼んだところ、電話番号を教えて頂き、電話をしたら訪問してもよいということになった。
奥さんは数学科の主任教授だとかで、哲学研究者はインドでも奥さんに食べさせてもらっているのだなあと思っていると、バヴェー先生は数学科の名誉教授で、退官してからムンバイで2年半教えてから、今は哲学科で客員教授をしているのだという。インド論理学を学び始めたのは91年からで、ずっと西洋論理学を教えていたが教え子から「インドなのにどうしてインド論理学を教えないのか」と言われたのがもとだという。恐れ入った。家はプネーで最も便利なデッカンジムカナの一角にあるが、夫婦で教授とは思えない質素な住まいだった。
西洋の論理学が形式主義であるのに対し、インドの論理学は経験主義であり続けた。ギリシア以来普遍的・抽象的な論理が求められてきた一方で、インドは議論の場を重視し、その場に居合わせた人の経験を超え出ないように具体的・臨機応変に論理が進められていく。数学においてもしかり、ユークリッドが直線の定義を定式化するとき、インド人は地面に線を引いて「これが直線だ」という話は象徴的である。
その結果科学理論の面では西洋にすっかり溝を開けられてしまったが、絶対的な真理はなく、真理と見なされるものも結局その場その場の一時的な約束事に過ぎないというインドでは当然の真理観は、西洋がゲーデルやヴィトゲンシュタイン以降、ようやく最近になって気づき始めたことである。数学的な真理でさえも、このまま永遠に真理であり続けるという保証はまったくない。
論文を頂いて小一時間ほどそんな話をしてから退出。私が興味を持っている討論術と論理学の関係を考える上で、非常に有意義なひとときであった。
それからMGロードの旅行会社でチケットを購入、アイノックスで映画を見ようとしたがいい映画がなくてEスクウェアに移動してマラーティー語のコメディー映画『神様に頼まれて結婚した夫』を鑑賞、バンダルカル研究所で写本のコピー状況を聞き、ABチョウクのサーヒティヤ書店で本を注文、再びMGロードのピラミッドデパートでおもちゃを見て、夜の7時から日本人学生で夕食。1日中移動していたような感じだ。








80ルピーゲットでほくほく笑顔のおばさん
チャーラート

夕食に向かう途中、道端でゲームをしている集団に出くわした。ずいぶん面白そうなので眺めながら、ルールを聞いてみる。
このゲームの名前は「チャーラート(四八)」といい、パチーシというインド双六の変形のようだ。5×5のマスを作り、各自外側からコマを投入して中央の1マス(王様)を目指す。移動はスイカの種よりちょっと大きい木の実を振る。黒い種は片面を地面にこすり付けて白くしており、この白い面がいくつ出たかで進む数が決まる。種は4つ振るから、最大4マス進める。もちろん早く中央にたどり着くには4をたくさん出した方がよい。
しかし他の人のコマが後から同じマスに入ると、前にいたコマは殺されて盤外へ。再び盤に戻るには、4を出さなければならない。これがパチーシの特徴であり、ソーリー、ザップゼラップなど欧米のゲームにも取り入れられている。5×5のマスの中には、後からコマが来ても殺されない安全地帯がいくつかある。これが4マスおきにあって、4を出し続ければどんどん進むし安全でもあることになる。これが「チャーラート(四八)」という名称の語源のようだ。
3回か4回勝負で、一番多くのコマをゴールに入れられた人が勝ち。当然のことながら、お金を賭けてやっていた。サイコロ一発で決まるのではないので、ギャンブル性は低く、過程で一喜一憂できるゲームのように感じた。イカサマもしようがない。材料もサイコロになる木の実、地面に線を書くチョーク、コマになる適当な棒切れがあればよいのが手軽だ。
インドではよく道端でポーカーやキャロムをやっているのを見かける。ポーカーは賭けてやることが多いようだが、道端で地べたに座って遊んでいると賭場の暗さはこれっぽっちもない。ただ、ポーカー詐欺で旅行者がみぐるみはがされた上にキャッシュカードを最高額まで使わされるということもあるので、イカサマができるようなゲームには参加してはいけない。今日は誘われることもなく、純粋に見て楽しめた。
日本人学生での夕食は7名。インド留学資金の調達方法や大学でのセクハラの話、そしてFさんたちが年末の津波のとき海岸にいて、漁師の警告で逃げて助かった話。今まで多くの人が使ってきた文部科学省アジア派遣の奨学金が、今年から年齢制限が27才までになり、インドに長期間行けるようになる博士課程1年で受給するには浪人も留年もできない。民間の奨学金は受給するために研究の社会的意義などをでっちあげるのは自分に嘘をついているようで辛い。日本学術振興会は博士号を持っていないとほとんど通らなくなった。そもそも、博士論文をそんなに早く書かせるのはどうしてか。コンビニバイトの文学博士が量産されるのではないか……暗澹としている。セクハラの方は、マスコミなどで騒がれるのは氷山の一角に過ぎず、予備軍はいくらでもいる。でもインドの文献を読む授業中に卑猥な文に出くわしたらどうするのか……など。こんな話題だが、楽しい団欒となった。
私はずいぶん前から飲み会で勉強や仕事の話をするのが好きではない。すれば話が合うから面白いのは確かだが、勉強人間、仕事人間というのは人間としての厚みがなく、かっこ悪いような気がするからだ。また、酔っ払って議論しても堂々巡りに陥ることが多く、頭を使ったような気になるだけで何も残らない。どうせ残らないのだったらもっと別な話をして気分転換してはどうかと思う。今日の飲み会はしゃちほこばらず、暗い話題の中も機微がきいた笑いがたくさんあってよい気分転換になった。終バスの時間が気になってしまうのが玉に瑕である。

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