プネーの名物のひとつに、ゾウの神様ガナパティ(ガネーシュ)祭がある。今年はヒンドゥー暦に閏月が入った関係で例年より遅く、9月18日に初日のガナパティ・チャトゥルティー(ガネーシャの4日)が祝われた。
数日前から道路の30メートルおきぐらいにマンダルと呼ばれる即席祭壇が準備され、初日に神像をステージ中央に安置する。ここで行われるのがプラーンプラティシュターナ(安置式)という祭式だ。まず神像は目隠しをした状態でトラックに乗せられ、シンセサイザーと制服を着た太鼓の楽団に率いられてやってくる。安置されると、招かれたブラーミンがマントラを唱えながら、水、お菓子、線香、花輪、装飾品をお供えして目隠しを取る。それから灯火を点して神像の前でぐるぐる回し、それから後ろで見ていた参加者が灯火の煙を頂く。マントラの一部を全員が手をたたきながら唱え、その場で右回りにくるりと回るところがあり、この全員参加型が日本の祈祷にないパターンである。
地区ごとにステージを作り、祭式を始める時間はまちまち。一般に商店街は昼に行い、住宅街は夜に行っているようだ。1キロほど近くを見て回ったが、ステージごとに設置の仕方が違っていて面白い。電飾でピカピカさせているもの、現代風にアレンジしているもの、草木で飾っているもの、ガネーシュ以外の神像と一緒に飾っているもの、『ラーマーヤナ』などの古代説話の一場面を人形で再現したもの……。
初日はK氏、I氏と景気付けにビーフステーキでビールを飲む。理由は分からないが、このところプネーにはビーフステーキを出す店が増えている。今日食べたのはコレゴンパークの「マッド・ハウス・グリル」というところだが、バンダルカル東洋研究所の近くにも「神戸」という店があるし、カリヤニナガルにもあるらしい。メニューを指差して店員に「これは何のステーキか?」と訊くと勇気を振り絞ったような声で「ビーフ!」と答えるのが面白い。ヒンドゥー教のお祭の初日に牛を食べるとは世間に背を向けているが、肉は柔らかくて美味しかった。
2日目は去年ホームステイさせてもらっていたアムルタさんに案内され、正式な祭式を見せてもらう。サハストラ・アーヴァルタナ(千回繰り返し)といい、ガネーシュを讃えるマントラ「ガネーシュ・アタルヴァシールシャ」を1000回繰り返すもの。1回唱えるのに2分はかかるから、単純に計算して33時間かかることになるが、幸い20人で唱えれば50回でいいことになっており、1時間30分ほどで終わる。お経本を渡されて私も参加したが、休みなしで声を張り上げ続けるというのもなかなかつらい。日本の葬式でもそんなにお経を読み続けるということはない。
現代の伝統主義者 (Pune Times 9/20) かつて人々はシュローカ(サンスクリット語の讃歌)を知っていたものだったが、今はお祈りのときにカセットテープを流す人が増えている。「確かに便利だからだけど、シュローカをちゃんと覚えていないからでもあるんです」とグプテさん(27)。シュローカを知るブラーミンや親戚の長老が招いてはどうかといえば、「ブラーミンはこの時期たくさんの家で呼ばれていて忙しい。そもそもみんな時間がなくて簡略にせざるを得なくなっている」と銀行員のクルカルニ氏(56)。祭日の料理ボーグも今では外に注文したり、簡略化する人が出ている。ソフトウェア・コンサルタントのパトワルダンさん(29)は「仕事が忙しくて祖母や母が作っていたようにボーグを準備するのは無理。だから一部だけ作ってあとはお店に頼んでいるわ。」こうした若者だけでなく、料理があまりできなくなった老人などにもボーグの配達サービスは売れているという。 |
マントラの内容は「ガナパティ神に敬礼して私は真実を語ります。あなたは我々の上下左右前後、世界のどこにでもいます。あなたは世界の原因として存在・精神・歓喜そのものであり、ブラフマー神であり、ヴィシュヌ神であり、スーリヤ神でもインドラ神でもヴァーユ神でもルドラ神でもあり、不滅です。私は心を込めてあなたを讃え、供物を捧げます」というような内容。サンスクリット語だが、暗記している小さい子どももいた。
終わってから参加者に昼食が振る舞われ、お腹いっぱいになった。大好物のデザート、ラス・マライ(スポンジケーキを劇甘ココナッツミルクに浸したもの)をお替りしたのがいけなかったような気がする。夜遅くまで満腹で夕食がほとんど食べられなかった。
夜には今住んでいる団地でイベント。初日は「スプーンの上に小さいレモンを置き、スプーンをくわえてレモンを落とさないようにしながら20メートル走る徒競走(リムブ・チャマチャー・スパルダー)」が行われていた。喜んで写真を撮っていると、ステージに呼び出される。司会者は名前などを訊くとマイクで「只今写真を撮っておりますのは日本から来たミスター・オノです。プネー大学でサンスクリットを勉強しています。ミスター・オノ、何かスピーチを!」
……恥ずかしかったが、マラーティー語で簡単な自己紹介をすると子どもたちが次々と近づいてきた。こうして私のデビューは果たされた。半径数キロ以内に外国人が住んでいる形跡のない地域だが、外国人が珍しくて子どもたちがはにかみながら近づいてくるのを見ると、ここは田舎なんだなあとつくづく思う。
3日目の夜はスピーチコンテスト(ワクトリトワ・スパルダー)。小学生がマラーティー語か英語で3分のスピーチを行う。私はステージ横のゲスト席へ。20人ぐらいの子どもたちがきちんと作文をして、それを覚えてきて発表する。その上半分は流暢な英語。「何も見ないで一定の時間話す」という教育は、日本にはない。だから国会の討議ですら台本を読むだけになるのだ。インドはこれからどんどん世界的に通用する人材を輩出していき、日本はおろか中国も負けていくような気がする。
しかしテーマは1年生から4年生が「私の国インド」、5〜7年生が「力を合わせる大切さ」、8〜12年生が「インドの宗教とお祭」。豊かな文化と歴史遺産、広大な国土と偉大な先駆者をもつインドは、独立を堅持し、異なる地域と宗教が力をあわせて未来を作っていかなければならないという話が異口同音に語られる。インドの愛国心教育はすさまじいものがあるとは聞いていたが、目の当たりにすると面食らってしまって苦笑いしか出なかった。
ちなみにこのガネーシャ祭はもともと各家庭で行われていたが、インド独立運動の一環として今のようなかたちになったという。今日ではエンターティメント化しているが、インドの伝統を知り、愛国心を育てるというのが元来の目的だったのである。このスピーチコンテストもそういう過去の流れを汲むものだ。
4日目は市内で一番大きいというガナパティ寺院・ダグルシェートを見に行く。映画俳優のアミターブ・バッチャンが耳を患ったときに黄金の耳を寄贈したという曰くつき。夜は人がごった返して何も見えないというので、昼のうちに行くことにした。それでもずいぶん込み合っている。参道はお供え物の椰子の実を売る店がずらりと並び、寺に着けばマントラが絶えず流れ、そばでは古式ゆかしい護摩炊きも行われていた。
僧侶がカラオケのようにマイクを握ってマントラを熱唱していたり、休憩に携帯で電話をかけたりしていたが、その違和感で笑ってしまった。少なくとも何百年と行われてきた伝統と、マイクや携帯といった現代グッズのコントラスト。伝統に従って厳粛に進めるため、またお客様に違和感を抱かせないため、私はこれを日本で気をつけているので、余計そういうところが気にかかる(お葬式や法事に携帯電話を持っていかない、法要の最中は腕時計を外す、マイクは極力使わないなど。あと休憩にタバコをふかしているのを見るのも興醒め。メガネを外すわけにはいかないので、はじめから地味なものをかける)。
そして4日目の夜はダンスコンテスト。音楽にあわせて子どもたちが1人ずつ踊りを披露する。伝統舞踊からエアロビ風ダンスまでさまざまあったが、みんな驚くほど上手だった。日本人の踊りといえばせいぜい阿波踊りぐらいまでのスピードだが、こちらのダンスは手足の残像が目に残るくらい超早回し。しかも全身くまなく使う。私が真似したら3分で翌日の筋肉痛が確定しそうな激しい踊りだ。超早回しなのに指の先から足の先まできれいに揃っている。これは日ごろの鍛錬なのか、それとも生まれつきのリズムなのか。
インドに来る前、成田空港で浜崎あゆみの新曲プロモーションビデオが放映されていた。インド映画の踊りにすっかり慣れていた私には、彼女の踊りは(バックダンサーも含めて)ただ左右に揺れているだけにしか見えず、生ぬるい気がしたのを思い出す。揺れているのと踊っているのは全く違うのである。そういう意味では、日本人は踊りを知らない民族なのかもしれない。
5日目は雨で特に見るものなし。6日目にアムルタ家に再び行く。神像のヴィサルジャン(送別)が終わった家は、客を招いてお祝いをするのだという。祭の期間は最長10日あるが、家によって1〜8日で切り上げてしまう。魂抜きは近くの川(または街が用意した水槽)まで行き、「ガネーシャさま、また来年!」と言って神像を沈めるという儀式。10日の後は街の大型神像が神輿を始めてものすごく混雑するため、家庭では早めに切り上げる。
お祝いといっても何かあるわけではない。ただ客が次から次へと訪れてお菓子を食べておしゃべりしていくというだけ。往復2時間かけて来た身としては拍子抜けしてしまったが、アムルタさんのおじさんから、「ガネーシャの4日」というのはヒンドゥー暦の話だとか、みんなが「ガナパティバッパー・モーリヤ!」と叫ぶのは「ガネーシャ神に敬礼!」という意味だとか、祭の期間中ガウリーという女神も崇拝されるとか、いろいろ教えてもらった。
7日目はガネーシャ・パーティが行われ、女優のアイシュワリヤー・ライがゲストとして来るというのでK氏と見に行く。授業のため30分ほど遅く行ったら、もう満員で入れなかった。入り口で隙あらば入り込もうとしているインド人の群れ、棒を持って警備している警察。ときどき警察が棒を振り回しながら群れを散らすが、すぐにまた群れができる。まるで食べ物にわんさかたかるハエのようだった。VIP入口にアイシュワリヤーを乗せたものと思しき遮光ガラスのベンツが入って行ったときはみんなわっと群がり、わっと追い払われた。中には逃げ遅れて本気で叩かれている人も。
何とか入ろうと粘ったが、チケットなしではどうしようもない。中から「ガナパティバッパー・モーリヤ!」の大きい掛け声が聞こえてきて、中も相当混雑している様子を伺わせた。諦めてお茶を飲み、帰ることにする。翌日の新聞によると1万人が入り、ガネーシュ祭というよりもアイシュワリヤー祭になっていたとのこと。当のアイシュワリヤーは30分遅れで到着し、終わる前に帰ってしまったらしい。それでも史上最大の動員を記録したのは、彼女のおかげにほかならない。
帰る途中で移動遊園地を見つけ、ものは試しと人力観覧車に乗る。3〜4人の男たちが押したり引いたりして弾みをつけ、観覧車を動かしてしまうというもので、不規則に回る感覚が怖い。カゴにぶら下がったり、軸に足をかけたりして曲芸のように力を加えていき、どんどんスピードアップしていく。「バース、バース(もう十分)」……気持ち悪くなってきたので止めてもらった。これで25円也。観覧車だからとなめていたが、回転系に弱い私の三半規管は確実にやられ、足がしばらくふらついていた。
9日目はプネーで勉強している日本人で駅裏のイタリア料理店「ピザ・エクスプレス」に集まり会食。お祭がこんなに盛り上がっているのは自分のところだけかと思ったら、みんなのところでも同じようなものらしい。ただ今年は警察の取締りが厳しくなったのか分からないが夜中はあまり騒がしくなくなっているという話だった。これは騒音公害が取りざたされるようになっているからで、11時には切り上げなければならない。もっとも熱狂はすぐに止むはずもなく、12時を過ぎてまだ盛り上がっているところもまだまだ見られる。
10日目、祭の最終日は踊りながらガネーシャの神像を川や池に流しに行くヴィサルジャン(送別)という儀式。祭壇からトラックやトラクターに神像を移し、各家庭から出た神像も一緒に乗せると、派手な音楽を鳴らしながら行進が始まる。トラックの前で音楽にあわせて赤い粉をかけながら、老若男女が踊りまくる。周囲には見物人の群れ。トラックのスピードは時速20メートルぐらい。池はすぐ近くだが、何時間もかけてゆっくりゆっくり進む。中心街ではこの何倍もの規模で行進が行われているという。後日の新聞では10日目の昼から始まり、翌日の昼過ぎまで、25時間やっていたそうだ(それでも警察の指導で去年より3時間早く終わったとのこと)。
昼に行ったときはまだ穏やかだったが、夜に通りかかったところでは「どうか踊って下さい。2分だけ!」と手を引っ張られて踊りに参加。苦笑いしながらちょっと踊ってみる。みんなシラフだが、私はたとえ酔っ払っても付いていけない熱狂にすっかり気後れしながら…。ちょっとだけ楽しかったが、踊っている最中、狙っていたかのように赤い粉をかけられる。挙句の果てに、頭にまぶしこまれる。こんな日に限って白い服を着ていた私は上半身全部がピンク色に染まり、見るからに陽気な人になってしまった。
去年プネーに着いたのはちょうどお祭が終わった翌日だったので、初めて見たガネーシュ祭。楽しみにしていたことはあまりなく、むしろスピーカーの音がうるさくて勉強や授業ができるかが心配だった。実際のところうるさいかどうかは住んでいる場所による。お寺や特設祭壇のすぐそばだったらもうどうしようもないが、今住んでいるところは幸い遠くの喧騒程度。先生のお宅での授業は何度かヒンディー映画音楽が流れてきたものの、集中力を切らさなければ聞こえないということはなかった。
形骸化しつつある日本のお祭と比べると、みんなが思い思いに楽しんでいる。それだけ日常の娯楽が少なくつまらないということかもしれないが、笑顔を見ているるとこちらも顔がゆるむ。このお祭を通して、プネーの人々に親しみを覚え、ここに住んでいるのが好きになったような気がする。