晋山結制式の最後に行われた首座法戦式では、「本則」という今回の修行のテーマについて問答を行った。これに先立って行われる住職の問答は台本がないが、首座の問答は実は台本がある。今回の「本則」は百丈野狐における因果応報についてだったので、それに関連するものをいろいろな書物から集めた。
問一 弁事
問 なぜ仏様に手を合わせるのですか。乞う尊意。
答 天竺以来の礼拝の作法、手を合わせると仏様が喜びます。
問 神様にも手を合わせます。
答 手を合わせるとは、左右の手を一つにすること。仏様や神様と自分をぴったり一つに合わせ、自分の思いを分かって頂こうとする形です。
問 尊意、尊意。
答 形だけ手を合わせても、心がなければ合掌になりません。
問 分かりました。これからは気持ちを込めて手を合わせます。
答 ありがとうも合掌、ごめんなさいも合掌、お願いしますも合掌。心を伝えるのが合掌です。
問 珍重。
答 万歳。
善い行いをすると幸せになれるという善因楽果の始まりは合掌である。両手に気持ちを集中して相手に向かい合ったとき、心のなかに温かさが生まれる。
問二 知殿寮
問 作者は、不落因果は撥無因果なるや否や、乞う尊意。
答 大修行に瞞他不得あり、撥無因果なるべからず。
問 不落因果を道取するによりて悪趣に堕すは撥無因果なるべし。
答 否や深信因果というは菩提心を先として、すみやかに諸因諸果をあきらめ、仏祖の洪恩を報ずるをいうぞ。不落因果も菩提心ありて因果をあきらめれば撥無因果なるべからず。
問 正得、向上、更に一句を乞う。
答 因果に落ちず、因果をくらまさざるは、ただこの結跏趺坐のみなり。
問 珍重。
答 万歳。
不落因果も不昧因果も大差ないという『従容録』に説かれる意味についての問答。菩提心をもって坐禅をすれば、不落因果であっても悟りを開ける。理論よりも実践。
問三 知殿寮
問 因果の道理歴然として私なし、乞う尊意。
答 人の幸不幸は過去の業にあらず、神の定めにあらず、偶然にあらず、ただ精進によるをいうなり。
問 然らば仁なる者命短く、暴なる者命長く、逆なる者吉にして、義なる者凶なるは何故なる。
答 業報の理は有る無しにあらず、深く信じ精進してあきらむるべきものなり。
問 信心なく生老病死に苦しむ衆生にも楽果あらんや。
答 観世音菩薩に自未得度先度他の誓願あり。たとい石橋腐るとも、誓願は朽ちず。
問 珍重。
答 万歳。
因果応報は普遍的法則ではなく、それを信じて精進した者だけに見えてくる仏の道筋である。しかし因果を信じず、善悪をわきまえられない人たちにも、お釈迦様や観音様の救いの手はいつも差し伸べられている。その橋渡しをするのが僧侶にとって精進そのものにほかならない。
問四 堂行寮
問 作者は、灑灑落落にして哩囉を唱う、乞う尊意。
答 至道は無難にして唯だ揀択を嫌う。
問 中々、揀択を嫌うとは如何。
答 茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す。もし真に不疑の道に達せば猶お太虚の廓然として洞豁なるが如し。
問 正得、わずかに疑いあればこれ揀択。和尚、如何が某甲の為にせん。
答 黒漆の崑崙夜裡に走る。
問 珍重。
答 万歳。
『従容録』に説かれる、こだわりがなくなって歌声が出るような境地とはどのようなものかを問う。「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す(お茶を飲むときはお茶に集中、ご飯を食べるときはご飯に集中)」「黒漆の崑崙夜裡に走る(真っ黒でよくわからないものが夜中に走り回っている)」は瑩山禅師のお言葉。平常心をもって日常生活を送れば、これまで見えてこなかった真実の姿が見え隠れしてくるという。そのような境地を日々心がけたいものである。
問五 書記
問 作者は、首座和尚、今後の僧としての覚悟はいかに、乞う尊意。
答 本日この法戦の任にあたって全霊を尽くした如く、他日の任にも同じく全霊を尽くす。
問 中々、言うは易く行うは難し。日々の行持を行取するに容易なる道なし。
答 僧侶の務めは坐禅勤行のみならず、檀信徒を導いてこそ仏道の修行。
問 尊意、尊意。
答 抜苦与楽は本師釈迦牟尼仏の本願、僧の行願は衆生の利済なり。
問 正得、釈迦牟尼仏の本願を現成すること僧の本分なるべし。
答 水をすくえば月手にあり、月を宿すに大水小水の区別なし。共に心水を定め光保たんことを。
問 珍重。 答 万歳。
問 珍重。 答 万歳。
利他行は仏道修行の片手間に行うものではなく、それこそが仏道修行の本分と心得て全身全霊かけて行うべきものである。ときには手こずったり、思うようにいかなかったりして心乱れることもあるかもしれないが、いつか自他共に心が澄み渡って、どんなに少しでも仏様の教えが浸透することを願ってこれからの毎日を過ごしたい。