『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』


買ってから読み始めるまで時間がかかったが、タイトルほど重くなく、分かりやすい思考実験のおかげで難解でもなかった。

死ぬ前はまだ死んでいないから怖くない。死んだら(魂や来世などを認めない立場では)もう存在しないから怖くない。どちらにせよ死は怖くない。それよりも怖いのは不死である。永遠に死ねないのは怖い。死が悪いのは生きていればいいことがあるのを奪うときであって、生きているのがどう考えてもマイナスだったら(理屈ではありえるというだけであるが)死は悪いものではない。要約すればだいたいこのようなことが書かれている。

人生百年と言われる現代、70代ぐらいで亡くなっても早死と言われる。いや、80代でも90代でも家族は「もっと長生きしてほしかった」という。いったい何歳まで生きれば自他共に満足できるのだろうか。「ながきは人の願いにて 短きものは命なり(『追善供養御和讃』)」私たちの望みは、常に現実よりも少しだけ長いところにあるようだ。

結局、人生を先延ばしにする戦略には限界がある以上、現在の質や幸福度・満足度を高める(少なくとも人生を台無しにしない)戦略がよいということになる。まさに「其の中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生をも度取すべきなり(『修証義』)」である。余命二年でこの授業を受けていた学生のエピソード(p.213)が印象的だった。

どう生きるべきかということについては、小さな達成と大きな達成と、その混合という以上はあえて説かれていない。それは読後に各自が考えるべきことなのだろう。

一切皆苦を説く仏教の目指すものに少しだけ触れている。ただし「人生はネガティブなものだと認めることで喪失を最小化する戦略」は西洋生まれの著者にとっては受け入れられないそうである。もっとも、大乗仏教の世界に生きる私たちにも受け入れがたくなっているかもしれない。

「この世には苦しみがある。病がある。死がある。痛みがある。たしかに、私たちはほしいものもあり、運が良ければ手に入れられる。だが、それから失う。そして苦しみや痛みや惨めさを募らせるばかりだ。それならば全体として、人生は良いものではない。
仏教徒はこの判断に基づき、こうした良いものへの愛着から自分を解放し、それらを失ったときの痛手が最小限になるようにしようとする。それどころか、仏教徒たちは自己が存在するという幻想から自らを解放しようとする。自分が存在しなければ、何一つ失うことはない。
死ねば自分が消滅するのではないかと心配しているから、死は恐ろしい。だが、もし自己がなければ、消滅するものもない。」(p.291)

アシタ仙人はお釈迦様が立派になるまで生きられないことを嘆いたという話があるが、死ぬことで初めて、次の世代に引き継がれることもあるように思われる。先代住職は私が24歳のときに亡くなったが、あと20年も長生きしていれば私は僧侶にならず、立派な姿を見せることはいずれにせよできなかったかもしれない。もっと長生きしてほしかったという気持ちは今もあるが、あの年で亡くなったからこそ今の私があるのも事実である。「死は悪いことばかりではない」という説から、そんなことも考えた(寂しいことであるが、いずれ自分にもその役割が回ってくることも)。

本書の最後では自殺について、合理的にも道徳的にも正当化される場合があるというが、読むほどにそれは極めてレアケース(治る見込みのない重病で、医師や家族とよく話し合った上での安楽死ぐらい)のようである。「死んだほうがまし」と思うことは誰しもあるかもしれないが、生きる方に賭けてほしいというのが著者のメッセージのように思われる。

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