『百年泥』


作者は東大印哲で年上の後輩。チェンナイで日本語教師をしている経験から書かれているようで、作中の出来事とファンタジーの曖昧な境界が、著者自身と本作の主人公の曖昧な境界とリンクしていて、読んでいるうちに主人公の体験なのか想像なのか、それとも著者の体験なのか想像なのか分からなくなってくる。

借金返済のためチェンナイで慣れない日本語教師をすることになった主人公が、百年に一度の洪水で橋にあがった泥の山から出てきた品物から、自分自身や生徒のショートストーリーを思い出すという筋書き。ショートストーリーに起承転結があるわけではなく、美談も悲しい話もインドあるあるもごちゃまぜにされ、雑多で断片的で、収拾がつかなくなって結末を迎えるのはインドのお祭りのようだ。

小さい頃に母を亡くし、冷たい義母に育てられた無口な主人公は、自分の現実から距離をおき、現実にはならなかったがそうなる可能性があった世界のほうを見ている。それがこの作品の境界の曖昧さを自然なものとしている。現実か想像なのかなんてどうでもいいじゃないか、そこを分ける意味はないといわんばかりに。

これはありえた人生のひとつにすぎない、無限にある可能性の中で、たまたま投げた石が当たって鼻血を出しているのがこれにすぎない、そう思うとつい扱いがぞんざいになる。私にとってはるかにだいじなのは話されたなかったことばであり、あったかもしれないことばの方だ。

私がインドにいた頃を思い出してみると、良くも悪くも夢のようであったように思われる。あるいは当時の私から見れば、今の私のほうが夢のような可能性だけの存在である。一度、道路を横断中、とばしてきた車にはねられそうになったことがある(インドは車が右側通行なので、左右確認を間違えやすい)。運転手に「パーガルホー(馬鹿野郎)!」ど怒鳴られた。あの時死んでいたら、今はどうなっているだろう。

無限にある可能性の中のひとつに過ぎない現実。洪水の後のアダイヤール川のように渦巻いて、無限にある可能性の中のひとつに過ぎない未来が作られていく。これまでも、これからも。

『新潮』2018年10月号に作者の新作『象牛』が掲載されているのでこちらも読もうと思う。

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