第1章、第5章、第4章まで現代語訳にしたところで、そのままとなっていた修証義。先日、近くの方から連絡をいただき、残りの2章のことを尋ねられたのでようやく取り掛かった。
専門用語を使わないで現代語訳しているが、今回悩んだのが「功徳」。原義は「性質(サンスクリット語guna)」であるが、善行でもあり、その結果としての幸せでもあり、またその結果を生み出す能力でもある。広く捉えれば、「善因楽果」という仕組みを作る構成要素といえる。今回は善き行いによって生まれ、幸せ(悟り)を生み出す「力」と訳してみた。
第3章の最後、『正法眼蔵』の弁道話から引用されたフレーズが殊の外難しかった。どの解説本を見ても、違うことが書いてある。「弁道話」が坐禅の話であったのに対し、「修証義」では受戒の話に変わっているところのも難しさの一因である。
また十重禁戒も、僧侶向けと在家向けでは自ずから異なる内容となるため訳語に迷う。でも、日本で僧侶向けと在家向けを区別する必要があるのかを考えていくとなかなか興味深い。
修証義 懺悔滅罪
お釈迦様たちは憐れみ深く、広大で慈悲あふれる入口を開かれました。これは生きとし生けるものを悟りの世界に導くためです。人でも神でもどうしてこの入口に入らないことがあるでしょうか。例の三つの因果応報は必ずあるとしても、懺悔すればお釈迦様たちは悪い行いの報いを軽くしてくれます。それどころか、悪い行いをなくして清らかにしてくれるのです。
ですから、誠実な心に専念し、目の前の仏さまの前で悔い改めなければなりません。そうすれば仏さまの前で悔い改めた力が、自らを救って清らかなものにしてくれます。この力で、妨げのない清らかな信仰と努力を育てることができます。清らかな信仰が現れれば、自他共にその力が広がっていきます。その幸せは、生き物だけでなく無生物まで覆うのです。
その大意は、たとえ私が過去に悪い行いを重ねて修行が妨げられるような状態であっても、修行によって悟りを得た仏さまたちが私を憐れんで下さり、悪い行いの積み重ねから脱出させ、修行の妨げをなくし、悔い改めの力が限りなく世界中に満ち渡りますようにと願うことです。仏さまたちも昔は私たちだったのであり、私たちも未来には仏さまになれるでしょう。
「私が過去において作り出した悪い行いは、皆始まりのない貪りと怒りと愚かさから起こったものです。身と口と心から生じた一切を、私は今ここに悔い改める」このように悔い改めれば、必ず仏さまたちが助けて下さいます。心に深く念じ、身で礼拝し、仏さまに正直に告白しなければなりません。正直な悔い改めの力が、悪い行いの原因を消し去ってくれるのです。
修証義 受戒入位
次には深く仏・法・僧という三つの宝を崇敬しなければなりません。生まれ変わっても三つの宝を供養し崇敬しようと願いましょう。インドでも中国でも、仏さまたちが正しい教えを伝えたところでは、仏・法・僧を敬っています。
福が薄く徳が乏しい者たちは、三つの宝の名前さえ聞いたことがありません。まして帰依することができるでしょうか。むやみに祟りを恐れて怪しい山の神や鬼神などに帰依したり、仏教以外の祠に帰依したりしてはなりません。そのように帰依しても、諸々の苦しみから解放されることはありません。早く三つの宝に帰依して、諸々の苦しみから解放されるだけではなく、悟りを実現しましょう。
三つの宝への帰依とは、まさしく清らかな信仰に専念して、お釈迦様が在世であろうと、亡き後であろうと、合掌し頭を下げて次のように言いましょう。「み仏に帰依いたします。み教えに帰依いたします。和尚さまに帰依いたします。み仏は教えの先生だから帰依します。み教えは良い薬だから帰依します。和尚さまは優れた友人だから帰依します。」み仏の弟子となるには、必ず三つの宝に帰依することに基づきます。どのような戒律を受けるにしても、必ず三つの宝に帰依する戒律を受けてからその他の戒律を受けるのです。したがって三つの宝に帰依することで一般に戒律を受けることが成り立つのです。
この仏・法・僧に帰依することで生まれる力は、み仏と私たちの心が相通じ合う時にのみ成り立つのです。天上・人間・地獄・餓鬼・畜生のような世界にいる者でも、み仏と心が相通じ合えば必ず帰依することができます。帰依すれば、これから数々の来世全てにおいて、その力が積み重なって、この上ない最高の悟りに到達するのです。だから知らなければなりません。三つの宝に帰依することで生まれる力は最も尊く、この上なく、我々の考えが全く及ばないものであるということです。お釈迦様がこのことをすでに証明されているのですから、私たちも確信して受け入れなければなりません。
次には身を清らかに保つための三つの戒めを受けなければなりません。第一は一切の悪を行わないこと、第二は一切の善を行うこと、第三は一切の衆生を救うことです。次には十の重要な禁止の戒めを受けなければなりません。第一は生き物を殺さないこと、第二は盗まないこと、第三は淫欲を慎むこと、第四は嘘をつかないこと、第五は酒を売らないこと、第六は人の過ちを言い立てないこと、第七は自慢したり悪口を言ったりしないこと、第八は物惜しみをしないこと、第九は怒らないこと、第十は三つの宝を誹謗しないことです。以上の三つの宝への帰依、身を清らかに保つための三つの戒め、十の重要な禁止の戒めは、仏さまたちが守ってきたものなのです。
戒めを受けるということは、過去現在未来の仏さまたちが得たこの上なく正しい悟り、金剛のように堅固な悟りを実証するということなのです。知恵ある人ならば誰がこれを望まないでしょうか。お釈迦様は生きとし生けるもののために示されました。「誰でもみ仏の戒めを受ければ、そのままに仏さまたちと同じ世界に入ったのであり、その境地は大いなる悟りを得たのと同じなのである。本当にこれこそみ仏の子どもである」と。
仏さまたちはこのような戒めの世界で修行していますが、どの場面にも思いやはからいを残しません。私たちは戒めを受ければいつもこの恩恵を受けて、どの思いやはからいの中にも世界の区別がなくなります。このとき、あらゆる世界の土地・植物・垣根や壁・瓦や小石までもがみ仏のはたらきをし、その世界から流れてくる風や水の恩恵を受ける者たちは、計り知れないみ仏の導きにひそかに助けられて、仏さまに親密な悟りを実現するのです。これを人為を超えた力といい、作為を超えた力といい、これこそが悟りを求める心を起こすということなのです。