歴史的に特異な発展をたどった日本仏教も、社会から必要とされなくなっている現在、生き残りをかけて、戒律復興、組織改革、葬式の再建を提言。以下印象に残った箇所と感じたことのメモ。
僧侶の結婚について
- 韓国では日本の植民地時代に僧侶の結婚が一般化したが、1950年代に僧侶の結婚反対運動が起こり、現在では結婚を否定する宗派が多数派
- 「あなたには守るべき家族がいて、守る寺があるのでしょう。でも、タイでは僧侶として出家したということは、支えてくれる人々に命を預けたということを意味するのです。だから私には妻も子もいません」
→僧侶の結婚は日本では寛容どころか、求められている傾向すらある。結婚してわかる苦楽は利他行に役立つものであり、また配偶者も教化活動に関わることができる。家族と檀信徒も十分に両立可能であり、関係の相乗効果も期待できるのではないか。
僧侶の聖性について
- 糞掃衣の着用は死穢などの呪力を中和できる聖性があることを意味する
- 利他行の中で不浄に飛び込んでも毒されないために、聖性を守るべき「律儀」(善なる習慣力)が必要で、その律儀を担保するのが持戒
→確かに派手な衣にかかわらず中身が大事だが、現代において尊敬の源は持戒だけでなく、さまざまなかたちの社会貢献、専門知識、性格などの総合から導かれるはず。
教団組織の改革者について
- ブッダの教えを新たに脱皮させた宗祖の態度を肯定するなら、宗祖の教えを脱皮させる者の存在も肯定しなければならない
- 自ら新たな正統を担おうとする覚悟があり、志が高く、知的に優秀で、道徳的に潔癖で、人格的に端正で、人間的に魅力がある者だけが、異端となれる
- 福田となれる条件は、仏教の専門家(正しい信仰、教理学説の理解、正しい実践修行、深い体験的な悟り)、信仰の指導者(苦悩を救済する教化能力、教化意欲、専念努力)、正法の嗣続者(伝持し後世に伝える)
→そのような人物の登場を待って何もしないのではなく、ひとりひとりがほんの一部でも心がけることが組織が変わっていくきっかけになるだろうし、現にそうなりつつある。
葬儀の再建について
- 生まれてきた人は全員いつ死ぬかわからない以上、生者はみな臨終者であり、僧侶は、死者に加えて生者全員を臨終者ととらえて活動しなければならない
- 戒名は遺族を安心させ死者の魂の浄化を願うだけではお寺の金儲けの手段に過ぎず、仏教の教えを語り合い、それが機縁となって仏教の理解が深まり、遺族自身が仏道を歩む決心をするところまでいって善巧方便といえる
- 師弟養成課程の中で、生老病死に人々が苦しんでいる現実を目の当たりにするフィールドワーク的教育は必須
- 多様性は仏教で相入(不幸に見舞われた人はその他のすべての人に支えられ、立場が変わればその人が他者を支える側に回る)・相即(主と従を固定せず適切に演じれば安定や調和が生まれる)で理解できる
→檀信徒に寄り添い、共に苦しむ感受性を磨きつつ、その苦しみをどうやって乗り越えるか、その人その人に合わせて一緒に考えていく真摯さを大切にしたい。