因果を含める

10月上旬にドイツ・横浜にあわせて2週間。帰ってから、溜まっていた法事や原稿のほかに5件の講演があった。新庄では人権擁護委員の研修で「ジェンダー平等とは解像度を高めること」というお話、山形では保護司の大会で「因果は、あきらめさせるものではなく精進を促すための物語(フィクション)」というお話。

「因果を含める」という言葉には、物事の道理を説き示す、あきらめさせるという意味がある。しかし「現世の不幸は前世の行いの結果だから仕方がない、受け入れるしかない」という考え方(宿作因論)をお釈迦様は否定する。そればかりでなく、神様が決めるとか、偶然の産物だという考え方も否定する。そこに共通するのは、努力の放棄である。

「努力することで人生は変えられる、人間は変われる」という精進論をお釈迦様は主張する。たとえ過ちを犯したとしても、悔い改めて、そこから立ち直っていくための励ましとなるのが、「因果」という物語である。自分に当てはまるかどうかはわからなくても過去の事例からどうすれば悩み苦しみを克服していけるのかを学び、実践していく。騙されたと思ってやってみる。そのためには、信頼できる友人・伴走者が必要だ。それが保護司である。

先代住職もそうだったが、保護司には僧侶が結構いる。表彰された方が「自分自身精進してまいりました」と仰っていたのが印象深い。誰かに精進してもらうには、自分が精進していなければならない。お手本を示すというよりも、説得力の問題である。

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