バラモン教ヨーガ学派の根本聖典『ヨーガスートラ』(パタンジャリ作)の第1章「三昧章(समाधिपाद)」和訳。バラモン教だが、至るところに仏教の影響が見て取れる。
अथ(アタ) योगानुशासनम्(ヨーガアヌシャーサナム) ॥१॥
atha yoga-anuśāsanam
(1)これよりヨーガの教説が始まる。
योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः(ヨーガシュチッタヴリッティニローダハ) ॥२॥
yogaḥ citta-vṛtti-nirodhaḥ
(2)ヨーガとは、心作用の止滅である。
तदा(タダー) द्रष्टुः(ドラシュトフ) स्वरूपेऽवस्थानम्(スヴァルーペーヴァスターナム) ॥३॥
tadā draṣṭuḥ svarūpe-avasthānam
(3)そのとき、観る者はその本性にとどまる。
वृत्तिसारूप्यमितरत्र(ヴリッティサールーピャミタラトラ) ॥४॥
vṛtti-sārūpyam-itaratra
(4)それ以外のときは心作用の変化に応じる。
वृत्तयः(ヴリッタヤハ) पञ्चतय्यः(パンチャタイヤハ) क्लिष्टाक्लिष्टाः(クリシュタアクリシュターハ) ॥५॥
vṛttayaḥ pañcatayyaḥ kliṣṭa-akliṣṭāḥ
(5)心作用は5種類で、煩悩に汚れたものとそうでないものがある。
प्रमाणविपर्ययविकल्पनिद्रास्मृतयः(プラマーナヴィパリヤヤヴィカルパニドラースムリタヤハ) ॥६॥
pramāṇa-viparyaya-vikalpa-nidrā-smṛtayaḥ
(6)正知・錯誤・分別・睡眠・記憶である。
प्रत्यक्षानुमानागमाः(プラティヤクシャアヌマーナアーガマーハ) प्रमाणानि(プラマーナーニ) ॥७॥
pratyakṣa-anumāna-āgamāḥ pramāṇāni
(7)正知とは直覚・推論・聖典である。
विपर्ययः(ヴィパリヤヤハ) मिथ्याज्ञानमतद्रूपप्रतिष्ठम्(ミティヤージュニャーナマタドルーパプラティシュタム) ॥८॥
viparyayaḥ mithyā-jñānam-atadrūpa-pratiṣṭham
(8)錯誤とは誤った認識であり、真実に基づいたものではない。
शब्दज्ञानानुपाती(シャブダジュニャーナアヌパーティー) वस्तुशून्यो(ヴァストゥシューニヨー) विकल्पः(ヴィカルパハ) ॥९॥
śabda-jñāna-anupātī vastu-śūnyaḥ vikalpaḥ
(9)分別とは実体がなく、言語知によるものである。
अभावप्रत्ययालम्बना(アバーヴァプラティヤヤアーランバナー) तमोवृत्तिर्निद्रा(タモーヴリッティルニドラー) ॥१०॥
abhāva-pratyaya-ālambanā tamas-vṛttiḥ nidrā
(10)睡眠とは非存在知に基づく暗質のはたらきである。
अनुभूतविषयासंप्रमोषः(アヌブータヴィシャヤアサンプラモーシャハ) स्मृतिः(スムリティヒ) ॥११॥
anubhūta-viṣaya-asaṃpramoṣaḥ smṛtiḥ
(11)記憶とは経験した対象を失っていないことである。
अभ्यासवैराग्याभ्यां(アビャーサヴァイラーギャービャーン) तन्निरोधः(タンニローダハ) ॥१२॥
abhyāsa-vairāgyābhyāṃ tat-nirodhaḥ
(12)修習と離欲によってこれらが止まる。
तत्र(タトラ) स्थितौ(スティタウ) यत्नोऽभ्यासः(ヤトノービャーサハ) ॥१३॥
tatra sthitau yatnaḥ abhyāsaḥ
(13)修習とはその状態を保つ努力である。
स(サ) तु(トゥ) दीर्घकालनैरन्तर्यसत्कारादरासेवितो(ディールガカーラナイラントリヤサトカーラアーダーラアーセーヴィトー) दृढभूमिः(ドリダブーミヒ) ॥१४॥
saḥ tu dīrgha-kāla-nairantarya-satkāra-ādarā-āsevitaḥ dṛḍha-bhūmiḥ
(14)さらに修習は長時間休みなく巧みに熱心に取り組んで、堅固に定着する。
दृष्टानुश्रविकविषयवितृष्णस्य(ドリシュタアヌシュラヴィカヴィシャヤヴィトリシュナスャ) वशीकारसंज्ञा(ヴァシーカーラサンジュニャー) वैराग्यम्(ヴァイラーギャム) ॥१५॥
dṛṣṭa-anu-śravika-viṣaya-vitṛṣṇasya vaśīkāra-saṃjñā-vairãgyam
(15)離欲とは、見聞きした対象への渇望を離れた者の、調伏のことである。
तत्परं(タトパラン) पुरुषख्यातेः(プルシャキャーテーヘ) गुणवैतृष्ण्यम्(グナヴァイトリシュニヤム) ॥१६॥
tat-paraṃ puruṣa-khyāteḥ guṇa-vaitṛṣṇyam
(16)それが極まれば純粋精神が認識されるので、物質への執着がなくなる。
वितर्कविचारानन्दास्मितारुपानुगमात्संप्रज्ञातः(ヴィタルカヴィチャーラアーナンダアスミタールーパアヌガマートサンプラジュニャータハ) ॥१७॥
vitarka-vicāra-ānanda-asmitā-rūpa-anugamāt-saṃprajñātaḥ
(17)有想三昧は、分析・考察・喜び・自我意識というありかたを伴う。
विरामप्रत्ययाभ्यासपूर्वः(ヴィラーマプラティヤヤアビャーサプールヴァハ) संस्कारशेषोऽन्यः(サンスカーラシェーショーニヤハ) ॥१८॥
virāma-pratyaya-abhyāsa-pūrvaḥ saṃskāra-śeṣaḥ anyaḥ
(18)一方、無想三昧は、抑止の知を修習した後、潜在力だけが残ったものである。
भवप्रत्ययो(バヴァプラティヤヨー) विदेहप्रकृतिलयानम्(ヴィデーハプラクリティラヤーナム) ॥१९॥
bhava-pratyayaḥ videha-prakṛti-layānām
(19)肉体を脱して自然に帰った者は再生に至る。
श्रद्धावीर्यस्मृतिसमाधिप्रज्ञा(シュラッダーヴィーリヤスムリティサマーディプラジュニャー) इतरेषाम्(イタレーシャーム) ॥२०॥
śraddhā-vīrya-smṛti-samādhi-prajñā-pūrvakaḥ itareśām
(20)他の者は信仰・精進・記憶・三昧・智慧によって解脱に至る。
तीव्रसंवेगानामासन्नः(ティーヴラサンヴェーガーナームアーサンナハ) ॥२१॥
tīvra-saṃvegānām-āsannaḥ
(21)真剣に求める者たちにとって解脱は近い。
मृदुमध्याधिमात्रत्वात्ततोऽपि(ムリドゥマディヤアディマートラトヴァートタトーピ) विशेषः(ヴィシャヤハ) ॥२२॥
mṛdu-madhya-adhimātratvāt-tataḥ api viśeṣaḥ
(22)ゆっくり・中位・集中的かによってそれも異なる。
ईश्वरप्रणिधानाद्वा(イーシュヴァラプラニダーナードヴァー) ॥२३॥
īśvara-praṇidhānāt-vā
(23)主宰神への献身からも解脱できる。
क्लेशकर्मविपाकाशयैरपरामृष्टः(クレーシャカルマヴィパーカアーシャヤイルアパラームリシュタハ) पुरुषविशेष(プルシャヴィシェーシャ) ईश्वरः(イーシュヴァラハ) ॥२४॥
kleśa-karma-vipāka-āśayaiḥ aparāmṛṣṭaḥ puruṣa-viśeṣa īśvaraḥ
(24)主宰神とは煩悩・行為・結果・残滓に影響されない、特別な純粋精神である。
तत्र(タトラ) निरतिशयं(ニラティシャヤン) सर्वज्ञबीजम्(サルヴァジュニャビージャン) ॥२५॥
tatra niratiśayaṃ sarva-jña-bījam
(25)主宰神には最上なる全知の種がある。
स(サ) एष(エーシャ) पूर्वेषामपि(プールヴェーシャームアピ) गुरुः(グルフ) कालेनानवच्छेदात्(カーレーナアナヴァッチェーダート) ॥२६॥
sa eṣa pūrveṣām-api guruḥ kālena-anavacchedāt
(26)主宰神は時間に限定されないので古賢の師匠でもあった。
तस्य(タスィヤ) वाचकः(ヴァーチャカハ) प्रणवः(プラナヴァハ) ॥२७॥
tasya vācakaḥ praṇavaḥ
(27)主宰神を表す言葉は「オーム」である。
तज्जपः(タッジャパハ ) तदर्थभावनम्(タドアルタバーヴァナム) ॥२८॥
tat-japaḥ tat-artha-bhāvanam
(28)オームを繰り返すことがその対象を成就する。
ततः(タタハ) प्रत्यक्चेतनाधिगमोऽप्यन्तरायाभावश्च(プラティヤクチェータナーアディガモーピアンタラーヤアバーヴァシュチャ) ॥२९॥
tataḥ pratyak-cetanā-adhigamaḥ-api-antarāya-abhāvaḥ ca
(29)そしてそこから内面の意識に到達し、障害が消滅する。
व्याधिस्त्यानसंशयप्रमादालस्याविरतिभ्रान्तिदर्शनालब्धभूमिकत्वानवस्थितत्वानि(ヴャーディ・スティヤーナサンシャヤプラマーダアーラスィヤーアヴィラティブラーンティダルシャナアラブダブーミカトヴァアナヴァスティタトヴァーニ)
चित्तविक्षेपास्तेऽन्तरायाः(チッタヴィクシェーパーステーンタラーヤーハ) ॥३०॥
vyādhi-styāna-saṃśaya-pramāda-ālasya-avirati-bhrānti-darśana-alabdha-bhūmikatva-anavasthitatvāni citta-vikṣepāḥ te-antarāyāḥ
(30)その障害とは病気・倦怠・疑惑・不注意・放逸・邪見・拠り所のないこと・安定していないことであり、心の波である。
दुःखदौर्मनस्याङ्गमेजयत्वश्वासप्रश्वासाः(ドゥフカダウルマナスィヤアンガムエージャヤトヴァシュヴァーサプラシュヴァーサーハ) विक्षेपसहभुवः(ヴィクシェーパサハブヴァハ) ॥३१॥
duḥkha-daurmanasya-aṅgam-ejayatva-śvāsa-praśvāsāḥ vikṣepa-sahabhuvaḥ
(31)心の波に付随して、苦しみ・落ち込み・身体の震え・呼吸の乱れが起こる。
तत्प्रतिषेधार्थमेकतत्त्वाभ्यास(タトプラティシェーダアルタムエーカタットヴァアビャーサハ) ॥३२॥
tat-pratiṣedha-artham-eka-tattva-abhyāsaḥ
(32)それを除去するため、ひとつの真理を修習する。
मैत्रीकरुणामुदितोपेक्षाणां(マイトリーカルナームディトーペークシャーナーン) सुखदुःखपुण्यापुण्यविषयाणां(スカドゥフカプニヤアプニヤヴィシャヤーナーン)
भावनातः(バーヴァナータハ) चित्तप्रसादनम्(チッタプラサーダナム) ॥३३॥
maitrī-karuṇā-muditā-upekṣānāṃ sukha-duḥkha-puṇya-apuṇya-viṣayāṇāṃ bhāvanātaḥ citta-prasādanam
(33)それぞれ楽・苦・善・悪を対象とする慈・悲・喜・捨の修行から、心が明瞭になる。
प्रच्छर्दनविधारणाभ्यां(プラッチャルダナヴィダーラナービャーン) वा(ヴァー) प्राणस्य(プラーナスィヤ) ॥३४॥
pracchardana-vidhāraṇābhyāṃ vā prāṇasya
(34)または息を吐き出したり保ったりすることでも、心が明瞭になる。
विषयवती(ヴィシャヤヴァティー) वा(ヴァー) प्रवृत्तिरुत्पन्ना(プラヴリッティルウトパンナー) मनसः(マナサハ) स्थितिनिबन्धिनी(スティティニバンディニー) ॥३५॥
viṣayavatī vā pravṛttiḥ utpannā manasaḥ sthiti-nibandhinī
(35)または対象に起こった意識を絶えず持続するとき。
विशोका(ヴィショーカー) वा(ヴァー) ज्योतिष्मती(ジョーティシュマティー) ॥३६॥
viśokā vā jyotiśmatī
(36)または意識が憂いなく輝くとき。
वीतरागविषयम्(ヴィータ・ラーガ・ヴィシャヤン) वा(ヴァー) चित्तम्(チッタム) ॥३७॥
vīta-rāga-viṣayaṃ vā cittam
(37)または心が執着の対象を離れているとき。
स्वप्ननिद्राज्ञानालम्बनमं(スヴァプナニドラージュニャーナアーランバナン) वा(ヴァー) ॥३८॥
svapna-nidrā-jñāna-ālambanaṃ vā
(38)または心が夢や睡眠時の認識に頼るとき。
यथाभिमतध्यानाद्वा(ヤターアビマタディヤーナードヴァー) ॥३९॥
yathā-abhimata-dhyānāt-vā
(39)または望んだ通りに瞑想することから。
परमाणुपरममहत्त्वान्तोऽस्य(パラマアヌパラママハットヴァアントースィヤ) वशीकारः(ヴァシーカーラハ) ॥४०॥
parama-aṇu-parama-mahattva-antaḥ asya vaśīkāraḥ
(40)その者は原子から宇宙に至るまで調伏する。
क्षीणवृत्तेरभिजातस्येव(クシーナヴリッテールアビジャータスィヤイヴァ) मणेर्ग्रहीतृग्रहणग्राह्येषु(マネールグラヒートゥリグラハナグラーヒェーシュ) तत्स्थतदञ्जनता(タトスタタドアンジャナター) समापत्तिः(サマーパッティヒ) ॥४१॥
kṣīṇa-vṛtteḥ abhijātasya-iva maṇeḥ grahītṛ-grahaṇa-grāhyeṣu tat-stha-tat-añjanatā samāpattiḥ
(41)心作用が弱まると、透明な宝石の置き場にある周囲の映像のように、感覚の主体・行為・客体が一体化する。
तत्र(タトラ) शब्दार्थज्ञानविकल्पैः(シャブダアルタジュニャーナヴィカルパイヒ) संकीर्णा(サンキールナー) सवितर्का(サヴィタルカー) समापत्तिः(サマーパッティヒ) ॥४२॥
tatra śabda-artha-jñāna-vikalpaiḥ saṃkīrṇā savitarkā samāpattiḥ
(42)そこでは言葉の対象と認識と分別が混合しており、思考を伴う一体化である。
स्मृतिपरिशुद्धौ(スムリティパリシュッダウ) स्वरूपशून्येवार्थमात्रनिर्भासा(スヴァルーパシューニヤイヴァアルタマートラニルバーサー) निर्वितर्का(ニルヴィタルカー) ॥४३॥
smṛti-pariśuddhau sva-rūpa-śūnya-iva-artha-mātra-nirbhāsā nirvitarkā
(43)記憶が浄化されると、それ自体がないかのように、対象のみが顕現するのが思考のない一体化である。
एतयैव(エータヤイヴァ) सविचारा(サヴィチャーラー) निर्विचारा(ニルヴィチャーラー) च(チャ) सूक्ष्मविषया(スークシュマヴィシャヤー) व्याख्याता(ヴャーキャーター) ॥४४॥
etayā-eva savicārā nirvicārā ca sūkṣma-viṣayā vyākhyātā
(44)全く同様に、微細なものを対象として、考察を伴う一体化と思考を伴わない一体化が説明される。
सूक्ष्मविषयत्वं(スークシュマヴィシャヤトヴァン) चालिङ्गपर्यवसानम्(チャアリンガパリヤヴァサーナム) ॥४५॥
sūkṣma-viṣayatvaṃ ca-aliṅga-paryavasānam
(45)また、微細なものを対象とすれば、結局物質がなくなる。
ता(ター) एव(エーヴァ) सबीजस्समाधिः(サビージャスサマーディヒ) ॥४६॥
tāḥ eva sabījaḥ samādhiḥ
(46)これらこそ有種子三昧である。
निर्विचारवैशारद्ये(ニルヴィチャーラヴァイシャーラディエー)ऽध्यात्मप्रसादः(ディヤートマプラサーダハ) ॥४७॥
nirvicāra-vaiśāradye-adhyātma-prasādaḥ
(47)考察を伴わない三昧が透明になると、最高の自己が明らかになる。
ऋतंभरा(リタンバラー) तत्र(タトラ) प्रज्ञा(プラジュニャー) ॥४८॥
ṛtaṃharā tatra prajñā
(48)そこに真理を保つ智慧がある。
श्रुतानुमानप्रज्ञाभ्यामन्यविषय(シュルタアヌマーナプラジュニャービャームニヤヴィシャヤー) विशेषार्थत्वात्(ヴィシェーシャアルタトヴァート) ॥४९॥
śruta-anumāna-prajñābhyām-anya-viṣayā viśeṣa-arthatvāt
(49)これは聞いたり推論したりして得られる智慧とは対象を異にする。区別するためのものだから。
तज्जः(タッジャハ) संस्कारोऽन्यसंस्कारप्रतिबन्धी(サンスカーローニヤサンスカーラプラティバンディー) ॥५०॥
tat-jaḥ saṃskāraḥ anya-saṃskāra-pratibandhī
(50)そこから生じた形成力はほかの形成力を妨げる。
तस्यापि(タスィヤーピ) निरोधे(ニローデー) सर्वनिरोधान्निर्बीजः(サルヴァニローダーンニルビージャハ) समाधिः(サマーディヒ) ॥५१॥
tasya-api nirodhe sarva-nirodhāt-nirbījaḥ samādhiḥ
(51)それも止滅すると、一切が止滅するから無種子三昧となる。