ダライラマ講演会

本山の横浜・総持寺にダライラマ14世がやってくるというので聴講を希望し、聴きにいってきた。総持寺が能登で火災に逢って横浜に移転してから100周年を迎える記念事業だったので、入場料は無料である。
関係者限定の講演会だったが警備は厳重で、リストバンドをしないと入れないようにしてあった。警備員だけでなく金色のバッジをつけたSPがたくさん見張っている。受付で並び、クロークで並んでようやく入場。1000畳敷の本堂は本山の修行僧、寺院関係者、鶴見大学関係者、鶴見中高の学生総勢1700人でいっぱいになった。司会が携帯電話の電源を切るようにと5回くらい繰り返している。
ダライラマ14世は堂行と本山の重鎮に導かれ、足を引きずるようにして入ってきた。一斉に合掌をしてお迎え。本尊に五体投地してから、線香を拈じ、位に着いた。高台の上には演壇の後ろにソファーが置いてあり、くつろいだ調子で話し始める。英語交じりの中国語で通訳つき。
はじめに中論の『帰敬偈』を唱えてから、ここにいる皆さんで般若心経を読んでくださいというリクエスト。始まる前はきゃぴきゃぴしていた鶴見高校の生徒も一緒に読む。読み終わると般若心経の解説が始まる。一切は皆空であり、自性をもたないものである。人には仏性があるが、煩悩のために隠されている。般若心経の呪願文を唱え続けることで智慧が完成し、煩悩を取り除かれるとともに、自利と利他がつながるという。
そして世界の宗教は平和を目指す点で教えが共通しているにもかからず、これだけ紛争が絶えないのは看板だけ掲げて信仰していない人が多いからである。信仰する人が増えれば、世界は平和になると結んだ。
話は40分ほどで終わって質疑応答。予め決められていた鶴見高校の学生と本山の修行僧が質問する。鶴見高校の学生は輪廻について訊いた。人は死んだらどこに行くかという質問に対し、法称の『量評釈』を引用し、始まりのない意識が、習化と因果によって次の意識を生み、それが連続していくという、哲学的な答えを出した。
正月には神社、結婚式は教会、お葬式はお寺という日本人の節操のなさについては「楽しいですね」の一言。宗教は内面的なものであるというダライラマ14世の考え方からすれば、こういった行事がどんな形であろうとかまわないのかもしれない。宗教と文化は別物だとも。
修行僧の質問は、自分のことに精一杯という人がほかの人の苦しみにも目を向ける方法やダライラマ14世の説く普遍的責任について。全ての生き物も物体も、私たちに縁のないものはないというつながりの意識が必要だという答えだった。
決められた質問者が終わり、手を挙げての質問。最後に当てられた鶴見大学の職員は、シングルマザーとして苦しんでいること、自分の宗教がもてないこと、でも毎日本堂で手を合わせていることを話し、来世で自分は幸せになれるでしょうかと尋ねた。質問の途中からもう感極まって涙ぐんでいる。
これに対して、意志があれば必ず実るという話を因果関係をベースに話す。朝、美味しいものを食べたいと思って買い物に行けば、夕方に実現する。子どもによい教育を受けさせれば、子どもは十年後、何十年後に幸せになる。このように、結果がすぐ現れるものもあれば、時間がかかって現れるものもある。あなたの来世も、幸せになりたいと思うならばなれるだろう。ただし、意志が叶う条件を整えなければならない。それは今をしっかり生きることだ。
因果応報(特に三時業)の教えは、説き方によっては差別などの社会問題を現状肯定する恐れがある。そのため、来世よりも今が大切だという教えがよく説かれるようになってきているが、未来への意志や夢を蔑ろにしてはいけない。因果関係の「因」に直接的原因と間接的条件の2種類があることから、未来志向と現在の努力の2つを説明したのは見事としか言いようがない。
仏教哲学は、実存的な問題には無力だと思っていた。でも、法称や世親の難解な哲学を引用しながら、このように人の悩みに答える説き方もあるのだ。この頃は般若心経が分かりにくいからと初期仏典に傾倒していたが、もう一度宗門の伝統に沿って見直してみようかとも思った。拍手で送られていくダライラマ14世に、法悦の心で合掌した。
終わって駅に直行。昼食を取る時間がないのでコンビニで買おうかと思ったが、奮発して駅弁にした。考えてみたら昨日上京して以来、買い物をしたのはコンビニの水だけだった。

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