お盆に思う

毎年夏の一番暑い時期、全国的にお盆の行事が行われています。お墓参りをして先祖の霊を家に迎え、お供え物のおもてなしして送る行事は、夏の風物詩となっています。

こういった行事がいつから行われているのかは定かではありませんが、仏教の行事となったのは『盂蘭盆経』というお経によります。その中で説かれているストーリーは以下のようなものです。

お釈迦様の弟子、目連は母が死後、餓鬼界に落ちて飢えに苦しんでいることを知る。神通力を使って母に食物を届けようとするが、母が食べようとすると全部炭になってしまい、食べられない。困り果てたところにお釈迦様から助言がなされる。それは7月15日にたくさんの修行僧を招いて食べ物を振舞えというものだった。これを実行すると、母が無事に餓鬼界から脱出することができた。お釈迦様はさらに皆の者に告げる。毎年7月15日に供物を供えれば亡き父母は天上界に赴き、存命の父母は寿命が延びると。

このお経は、実は作り話であることがわかっています。お釈迦様の時代の仏教は、出家をすすめるものでした。それはお釈迦様が妻と子供を捨てて修行に出たというところに端的に表れています。家族、親族、血族といった俗世間からきっぱりと決別して髪を剃り落としたら、もう家族のことを気にかけてはいけなかったのです。当然、先祖祭祀からも足を洗うことになります。

一般社会と縁を切って別の世界にひきこもってしまう。この考え方は、為政者にとっては危険なものでした。とりわけ家族・父母を大切にし長幼の序を重んじる儒教国家・中国においてはなおさらです。仏教が中国で広まるためには、「仏教もちゃんと父母を大切にせよと教えていますよ」ということを示さなければなりません。こうした背景から『盂蘭盆経』などたくさんのニセのお経が作られたのです。仏教は儒教に大きく歩み寄ることになります。

さらにこうした中国の影響を受けた日本では、儒教と仏教が混合して広がることになりました。例えば仏壇にある本尊は仏教、位牌は儒教に由来するものですが、日本人は特に意識せず「ほとけさま」として一緒に礼拝しています。

さて、ここからが本題です。このような事情から、我々日本人は儒教に束縛されず原始仏教に回帰して、葬式法事などの先祖祭祀から足を洗い、生きている人の救済に焦点を合わせなければならないという主張がなされることがあります。

この主張は一見正しそうに見えますが、いくつかの問題がありますのでここで指摘をしたいと思います。

第一に、仏教とは原始仏教以外にはありえないという「仏教原理主義」である点。仏教とは仏=お釈迦様の(直接の)教えという定義をすれば間違ってはいないのですが、仏教はお釈迦様の(直接の)教えだけではありません。お経の字面からお釈迦様の教えに直接アクセスしたつもりになっていても、それは仏教を理解していることにはならないでしょう。

お釈迦様と我々の間には、お釈迦様の教えを真摯に伝えてきた弟子たちがいます。彼らはお釈迦様の意図を汲み取ろうと修行し、さまざまな言葉を尽くして語ってきました。「自分は成仏できなくとも、まず他人から救おう」という大乗仏教も、こうした中から生まれました。僧侶が出家者という性格を薄め、俗世間の中で人々を導く存在に変質していったのは、日本で初めて起こったことではないのです。お釈迦様への敬慕は仏教徒として当然のことですが、だからといって原始仏教に回帰することは不可能です。必要なことは、仏教の通史をひもときながら我々がとるべき今後の方向性を模索していくことにあります。

第二に、先祖祭祀が儒教に基づくものであると断定している点。日本民族は仏教や儒教が云々という前のはるか昔から先祖祭祀を行ってきたことが民俗学の成果によって明らかになっています。お盆は(儒教と混合した)仏教の行事でなかった可能性があるのです。豊かな日本の民俗行事を、これは仏教、これは儒教というように因数分解することはできません。

第三に、先祖祭祀と生きている人の救済を対立するものと捉えている点。この2つは両立が可能であるどころか、そもそも対立するものであるという意識さえされないものでした。またかけがえのない人を失った心の傷を葬式で癒す、法事に亡き父母の教えを思い出して気持ちを入れ直すということを、「葬式仏教」は実現してきました。古くから僧侶はお寺の周りに住む信者と深く付き合い、対機説法(人の状況に応じて適切な助言を与えること)を成し遂げてきたのです。

心に残ったある僧侶の方のお話です。

「檀家さんたちは話を聞いてもらいたくて寺に来ていました。決して偉いお坊さんを求めているのではありません。僧侶が寺の周りに住む人たちの寂しさや孤独を汲み取る役目を担い、そういう僧侶の積み重ねが宗門の今を築いているのです。寺に行けばお坊さんが待っている、そこで話をできる、そういう寺にしたいものですね」

以上の3点の問題によって、「我々日本人は儒教に束縛されず原始仏教に回帰して、葬式法事などの先祖祭祀から足を洗い、生きている人の救済に焦点を合わせなければならない」という主張は全く意味をなさないことがわかります。

それならばどのような主張をするのか。「我々日本人は、先祖祭祀が形骸化しないよう絶えずその意味を問い続け、その中から生きている人の救済を実現する方法を模索していかなければならない。」これが私の現在の考えです。先祖祭祀は生命の連続、人の生死、文化の伝承など、豊富な内容を含んでいます。「生きる」ということは親から生れてきているということであり、文化を担っているということであり、まだ死んでいないが死に向かってつき進んでいるということです。ひとりひとりが主体的に悩み、そして解決していくしかありません。幸いにして我々にはお釈迦様の言葉という心強い手がかりがあります。

葬式法事・先祖祭祀の是非を問う以前に、僧侶は生死問題のプロフェッショナルとして自己を磨き、先祖祭祀という場をうまく使って人々を教え諭していくべきでしょうし、一般の方々もなぜ先祖祭祀をするのかというところから一度、深く考えてみることをお勧めします。

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