曹洞宗では『修証義』というお経(仏説ではなく、道元の言葉なので正確には「論」というべきか)を読む。和文ではあるが、鎌倉時代の言葉を明治時代に編纂したもので、ただ読んだだけでは意味は分からない。でも般若心経や法華経、陀羅尼とは違って、呪文のよう唱えてもあまり意味がないと思い、現代語訳を試みた。
『修証義』は5章に分かれているが、第1章からいきなり、因果応報という難問を扱う。仏教者は昔から、現世で苦しんでいるのは過去の悪業が原因であるという「悪しき業論」の過ちを繰り返してきた。今回の震災で、石原都知事が天罰といったようなものである。因果応報や自業自得とは、決して他人の不幸につけこむものではなく、努力を続ければ必ず安楽の境地に至れるという修行の道筋を説き、未来に向かって主体的に生きることを勧める教えである。
現代語訳がないわけではないが、なかなか一般化しないのは、どうしてもこの悪しき業論に解釈されてしまう恐れが免れなくて、呪文のように読んだほうがましだという判断があるのかもしれない。しかし、せっかくの仏教の心に触れる機会を奪っているのは残念だと思い、試訳してみた。
因果応報はあくまで自身が、自身の幸せのために主体的に取り入れていくものとし、誰にでも当てはまるような法則という捉え方をしていない。唯識では、因果関係は仮説的なものに過ぎないという考え方があったように記憶しているので、あながち強引な解釈でもないと思う。
もう少し推敲したら、法事などで檀家さんに読んでもらおうかと考えているところだ。
この現代語訳を見て、心が落ち着きました。良かった!と、思いました
私は、娘をなくし 、般若心経としゅしょうぎを唱えております。
他の現代語訳を見て、どうして、先祖の行いのせいで?そんな馬鹿な!という想いでおりました。
きっと、悪い事をすると、孫の代まで、嫌な思いが残りますよ。と、言いたかったのではないかと。思いますが。
自分がした事の始末は自分でするのが当たり前。今の世、次の世、又その次の世、と、何年かかっても償いは無くなりませんよと言う教えでないと。
私は、子供を亡くした親の立場で。
立場、立場で捉え方は、千差万別。でしょうね。
ご覧頂きありがとうございます。お嬢さんを亡くされたつらさを、この現代語訳で少しでも和らげて頂けたなら幸いです。
過去は変えられませんが、未来は変えていくことができます。そして変えられるのは今この時、ここで、自分自身の行いしかありません。過去にとらわれず、今の自分を大切にしていきましょうというのが、趣意だと思います。悩み苦しみのない、よき毎日を送られますようご祈念申し上げます。