『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

著:石井光太/文藝春秋,2022年
この頃、ボードゲームの説明書が読める人が少ないという話を耳にする。ボードゲームのルールを理解するには経験が必要な上、ルールは近年複雑化の一途。それに家電でも何でも、説明書を読んでから使うという文化がない。しかしもしかしたら、若い層の読解力が以前より下がっている……? そんな疑問から紐解いてみた一冊。「昔は良かった病」にならず、例のごとくかなり悲惨な例を挙げながら、現代特有の問題に切り込んでいる。

「国語力」とは文科省の定義に沿って情緒力・想像力・語彙力・論理的思考力を指すが、本書では特に「自分の感情を的確な言葉で伝える能力」に焦点を当てているようだ。「ヤバい」「エグい」「ウザい」「クソ」「死ね」ぐらいでは伝えられることに限界がある上に、暴力や恐喝、不登校、いじめ自殺などに発展するケースも。原因として家庭格差、学校カリキュラムの混乱や教員不足、SNSの短文コミュニケーションなどが取り沙汰されているが(ゲーム・ネット依存も挙げられていますがこれは原因ではなくて交絡因子だろう)、どれも一朝一夕には解決しないことばかりだ。

プログラミング教育、主権者教育、防災安全教育、消費者教育、伝統や文化に関する教育、外国語教育、メディアリテラシー教育、キャリア教育、それにPTAやNPOからの企画が次々と降ってきて、基礎的な国語力をつける時間が全然足りないという教員の言葉は傾聴に値する。社会の要請に応える子どもに育てるほうにばかり気が向いて、人として肝心な部分を置いてけぼりにしていないか。

後半では少年院での言語回復プログラム、更生支援の私塾による国語の授業、小学校での農業体験や朗読劇、中学校での文学作品精読や哲学対話が紹介されてます。少年院では「表情カード」を使って感情を読み取ったり自分の感情を言語化したりする練習を積みつつ、日記・作文・感想文などで自己表現できるようにしていくそう。そのうちに「死にたい」「殺す」が「一人さみしい」「むくれる」に変わっていく。私塾の塾長は語る。

「日本の学校では、国語は身近すぎて軽視されがちですが、生きることに困難を抱えている人の大半は言葉に問題を抱えています。その苦労を知らない頭のいい大人たちが、彼らを『ちゃんとやれ』と叱っても効果がないんです。それなら、きちんと学び直しの機会を作り、”考える力””他者への想像力””論理力”をつけさせるべきです。」

振り返れば私も学校での農業体験、学芸会での演劇、夏休みに文庫本をまる1冊読んでいたことなどを思い出す(さすがに中学校の時、先生と自由に哲学について話し合える場はなかったが)。別に新しいことを始めなくても、これまでしてきたことの意義を再確認し、できればより多くの人が関わって継続していけば、未来は暗くないのではないだろうか。

序章の『ごんぎつね』で「死体を煮ている」とまじめに答えた小学生の気持ちはわかるような気がする。

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