5月の晋山結制式から100日間は本来「禁足」といって、お寺にこもって修行していることになっている。とはいえ現実はそうもいかないので、せめてということで首座和尚さんをお呼びして週に1回、マンツーマンでお経の勉強会をしていた。修行が明ける「解制」が来週となり、勉強会も最終回。
10回の勉強会で、曹洞宗でよく読まれる12のお経(般若心経、舎利礼文、大悲心陀羅尼、消災妙吉祥陀羅尼、仏頂尊勝陀羅尼、楞厳呪、甘露門、法華経普門品、法華経寿量品、参同契、宝鏡三昧、修証義)を読んできたが、一番難儀したのが参同契と宝鏡三昧。いくつかの翻訳(中野東禅、飯田利行、椎名宏雄)を参照したが、相互に全く違う翻訳になっている上に、意訳が多くて一語一語の意味がよくわからない。開き直って腑に落ちたところだけつまみぐいしながら、逐語訳を試みた。
主旨はどちらも共通で、「この現象世界(外界だけでなく自分自身も含む)の中に仏性が一体となって融け込んでおり、修行によってその隠れた仏性を直観することが悟りである」ということのようだ。まさに「峰の色 谷の響も皆ながら 吾が釈迦牟尼の声と姿と」(道元禅師)の心境である。
【現代語訳】参同契(石頭希遷禅師、8世紀)
天竺の釈迦牟尼仏が証明した悟りの心は東土中国、西土天竺の祖師たちが親密に相続してきたものである。人の理解力には鋭い鈍いがあるが、悟りの道には南方流、北方流の開祖の優劣はない。
仏心は明白に現れていて煩悩に汚されず、それぞれ異なる隠れた心に流入している。目先の現象にこだわると仏性を見失うが、仏性に無理に一致させようとしてもまた悟りにならない。感覚器官とすべての対象は互いに和合しつつ独立していて、循環した上で関係しており、そうでなければ独立した立場ではたらく。目に見えるものの性質や形象はまちまちで異なり、耳に聞こえるものも楽や苦の違いがある。隠された仏性は上下などの表現の違いに従い、目に見える現象は清らかなもの・濁ったものという表現で分けられている。地水火風という四元素の性質は結局のところ調和しているのは、迷子が自分の母親を見つけるようなものである。火元素は熱く、風元素は動き、水元素は湿り、地元素は固く、視覚は光、聴覚は音、嗅覚は香り、味覚は塩辛い・酸っぱいというように。その上、ひとつひとつ違いのある現象において、仏性の力によってその違いが展開している。仏性と現象はいずれも空に帰入しなければならない。目上の人・目下の人でそれぞれ言葉遣いが異なるようなものである。現象の中に仏性があるので、仏性だと思って考えてはならない。仏性の中に現象があるので、現象だと思って見てはならない。現象と仏性はそれぞれ互いに支え合って、たとえれば左右の足が前後して歩くようなものである。すべての物事には本来このようなはたらきがある。だから作用と場所が大切である。現象があれば箱と蓋が一致し、仏性がこたえれば名人の矢のように一致する。
仏の教えを聴いたら必ず空を体得しなければならない。自分の物差しを立ててはいけない。目の当たりにして仏の道を体得しなければ、どこまで進んでもどうして悟りの道がわかるだろうか。歩みを進めるのは距離の問題ではない。迷ってばかりで山や河の障害に隔てられてしまうだろう。謹んで参学の人に申し上げる。時間を無益に過ごしてはいけないと。
【現代語訳】宝鏡三昧(洞山良价禅師、9世紀)
ありのままの真理は、釈尊から祖師方へと親密に授受されてきた。あなたも今この教えを受けたからには、ぜひとも大切に護持しなければならない。
銀の器に盛り付けた白雪、月明かりに潜む白鷺のように、類似していながら同じではないが、混じり合わせればそれぞれの在り処が見分けられる。このような仏心は言葉には表せないが、悟りを求める人には伝えられていく。しかし思慮分別を働かせれば穴ぐらの巣にはまってしまい、仏心と食い違えば進退極まるばかりだ。背を向けても直に触れてもどちらも間違いなのは、大きな焚き火のようなものである。ただ言葉によって何かの形に表せば、煩悩の意識に閉じ込められてしまう。夜中でもひとつひとつ明らかであり、夜明けでも明らかにならないのが仏性である。
仏性は衆生のための規範となり、はたらいて諸々の苦悩を解消する。人為的ものではないといっても、語る言葉がないものでもない。宝の鏡の前に立って、自分の姿と鏡の影が互いに見つめ合っているようなものである。あなたは鏡の影ではないが、鏡の影はあなた自身にほかならない。
世間の赤ちゃんが五つの行動(起・住・来・去・言語)を完備しているのに、行くでも来るでもなく、立つでも坐るでもなく、バーバー、ワーワーと言葉にならない言葉を話し、結局要領を得ない。それは言葉がまだ世間に通じていないからである。易学の離卦を重ねた六本の算木は、個別と平等が互いに融合する仕組みである。六本の算木を畳むと三本となり、さらに五回畳み尽くすと離卦に戻る。一草で五味を備えた蔓のように、また一本の握り手から五本に分岐する金剛杵のようなものである。
偏らない仏性の中に千差万別の現象が含まれているのは、鼓と歌が呼応して唱和されるようなものである。現象が仏性の中で自由に働き、仏性が現象の中で自由に働く。仏性と現象は共にはたらきつつ循環し、調和するときに功徳がある。この真理に背いてはいけない。仏性は天真爛漫で自由であり、迷いにも悟りにも囚われず、因縁が熟する時、静寂にして明らかに現れ出す。そのはたらきは、どんなに小さな元素にも入り込み、一方で大きな宇宙をも包み込む。しかしながらほんのわずかでもすれ違いがあれば、調和は狂ってしまう。
今直ちに悟りを開くか、徐々に悟りを開くかという議論があるが、めいめい宗旨を立てるから根本が分かれ、それぞれに別々の規則ができてしまった。こんなことでは宗旨に詳しくなってその内容を極めたとしても、不変の真理は揺れ動き、外見は静寂でも内心は動揺する。それは手綱でつながれた暴れ馬や、人を恐れて隠れている鼠のようなものである。そこで昔の賢明なる祖師方はこの弊害をあわれんで仏法を施してきた。誤解があればそれに応じて、白黒の区別をつけてくださる。これで誤解がなくなれば、自ら仏心を体得することができる。先賢の歩みを手本にしようと思うならば、前仏古仏の教えをよく観察しなければならない。悟りを開こうとするところまでこぎ着けながら、十劫もの長い間、菩提樹の下で坐禅しても悟れなかった仏(大通智勝仏)がいる。耳の傷を誇る虎や、膝の上の白毛を誇る馬のようなものである。一方、理解力が劣っている凡夫たちに対して祖師方は、宝座に座りきらびやかな衣装をまとって仏法を示し、それを驚きあやしむ者には猫や牛に対するように救済につとめてきた。養由基はその技力で百歩も離れた柳の葉を射抜き、飛衛と紀昌の矢は空中でぶつかって落ちたというが、いったいいかなる技力なのだろうか。木の人形が歌い、石像の女性が踊るように、凡人の常識は追いつかず、むしろあれこれ考えても仕方がない。
たとえば大臣が王を助け、子が父親に従うようなものである。逆らえば孝行者とはいえないし、忠実でなければ補佐にならない。そのように平凡な日常生活の中に人知れず行うさまは、孔子の弟子である高柴や曽参のようなものである。このようにしてひたすら仏の行いを継続する者こそ、真理の主人公の中でも最たる主人公と呼ばれる。