瑩山禅師700回忌予修法要

ドイツ帰国から直行で本山御征忌・瑩山禅師700回忌予修法要に随喜。法華経如来寿量品を3座連続とかで読んでいると、一休さんの毒の水飴の話は、良医病子へのカウンターなのではないか、いい加減騙されなくても、直接的に永遠の仏に見える方法はもうすでにあるのではないか、などとお経を読みながら考えてしまう。

良医病子:ある医者の留守中に子供たちが誤って毒薬を飲んで苦しんでいた。帰宅した医者は薬を調合して子供たちに与えたが、毒だと思い飲もうとしなかった。そこでいったん外出して使いの者を出し、父親が「出先で死んだ」と告げさせた。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、大いに憂いて、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができた。そのように、「お釈迦様が死んだ」というのは煩悩にまみれた衆生を目覚めさせるための方便であり、本当は永遠の存在である。

毒の水飴:一休さんが小僧の頃、和尚さんが「子供には毒になる」といった水飴をみんなで食べてしまった。そこで和尚さんが大事にしていた茶碗を割り、和尚さんが帰ってくると「大切な茶碗を割ってしまったので死のうと思って水飴を食べた」と言った。

「供養も戒名もお墓も100%、生きている人がよりよく生きるためにあるもの」というのは地元焼香師さんの言葉。「一休さんのトンチは物事をポジティブに捉えるための発想の工夫」というのは詠讃師寮長さんの言葉。

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