著・小西正道/ブックマン社
「親族ともめない、お寺に搾取されない、穏やかで新しい供養のカタチ」というサブタイトルが気になって読んでみた。筆者は散骨・墓じまい・終活を手掛ける会社の代表で、墓地管理者である寺院との交渉をしており、その中で体験した実話が記されている。
遺族の目の前でお布施の金額を数える住職、戒名の位階を指を立てて選ばせる住職、毎年何万円もの「付け届け」の請求、そして何十万円という高額な離檀料や永代供養料の請求に加え、水増しされた墓石撤去費用……確かにこれでは「搾取」と言われても仕方ない。
仏様にお仕えする修行をし、私たち庶民の心に寄り添って心の安寧をもたらしてくれるはずの僧侶、住職が、なぜそんな真逆のふるまいをするのかと。
付け届けしか接点のないお寺との付き合いはストレスなだけです。ご遺族の「心」に届けるものが何もない寺から気持ちが離れるのは、ごく自然なことでしょう。
上記のような極端なお金のトラブルはなくとも、寺離れは「住職はお布施を頂くときしか来ない」という構造に起因しているように思う。両目に「¥」マークがついているお坊さんは嫌なもの。日常の礼拝や読経、僧侶としての研鑽、地域参加や社会貢献など、トータルで「このお坊さんにならお布施をしても惜しくない」と思って頂けることが大切である。
曹洞宗の宗務総長が旧統一協会をめぐって発表した談話の中で、宗教教団が信者の金銭的支援に支えられているのは本質的なこととしつつ、「『常に喜捨に値する存在である』という両面性によって成り立つ」「人びとの不安や苦悩に寄り添い、教えを通じて導き、『抜苦与楽』の役割を果たしてこそ成り立つ」と述べ、「多くの方の声に心の耳を澄まし、社会の中で共に歩んでいける存在でありたいと願い、それを行いにつなげてまいります」と結んでいる。仏事供養も社会活動も、そんな志を保っていけたら、「搾取」などと言われることもなくなるのではないだろうか。