著・末木文美士/朝日新書(2022年)
死者や神仏を他者論として考察している末木先生の最新刊。直接経験できない霊性や霊性世界を単純にないものとみなすことに抵抗を覚えるところまでは理解できたが、ポストモダンや憲法解釈までいくと飛躍しすぎている感もあり、結局もともとの専門である仏教学の知見が最も参考になった。
- 天台宗の「十界互具」説。地獄から仏の世界に至るまで十界のそれぞれが十界すべてを含んでいる。仏の世界にも地獄があるという性悪説を唱えた山家派の四明知礼(960-1028)が正統派。これが発展して一念三千説が生まれた。→だから仏は地獄の衆生に共感して救うことができる
- 平田篤胤(1776-1843)は死者は現世に留まり、生者のいる「顕界」から見えないが、「幽冥」から「顕界」は見えると説いた。→日本人の感覚
- 加藤弘之(1836-1916)は自然の因果と道徳上の因果を混同しているとして仏教の三世因果説を批判。これに応えて仏教側から清沢満之(1863-1903)が、霊魂は三世を通して進化し無限に近づいていくという霊魂自覚説を唱える。→仏教は生者のためのもの、葬式仏教は方便という説によって、死者(戦死者を除く)が表面から消されていく時代の到来
- 神仏と人間の関係は対等ではなく、人間社会の善悪に「感応」して天は賞罰を下すという天人感応説は董仲舒(176-104 B.C.)に遡る。→ご祈祷の前提
- 法然(1133-1212)の念仏は人間の側からの意志表明ではなく、阿弥陀仏の方から自らの名前の中に功徳を籠めて贈与したもの。これによって贈与された衆生と贈与する仏が一体化する「機法一体」が実現する。→陀羅尼も同じ構造
- 応身(方便としての便宜的な姿)は霊性世界の「第一層」=公共的な次元、または「第二層」=死者の世界の領域、報身(経典に説かれる神話的な姿)は「第三層」=神仏の世界の領域、法身(個別的身体が融解)は「第三層」のさらに奥底にある。→十仏名の毘盧遮那仏、盧遮那仏、釈迦牟尼仏のイメージ
この前提となる『死者と霊性』(岩波新書)を読んでからもう一度考え直してみたいと思う。