東大印哲の先輩が書いた本が今年相次いで出版され、同じく東大印哲の先輩からの依頼で書評を書いた(曹洞宗参禅道場の会『参禅の道』に掲載予定)。
『内在する仏 如来蔵』(鈴木隆泰・著)は如来蔵思想「誰でも成仏する素質がある」について、さまざまな経・論を取り上げてその成り立ちと展開を丁寧に説き起こしている。成仏が約束されていると、修行が不要になるのではないかという問題(道元禅師の「本来本法性、天然自性身」への疑問)に3つのアプローチがあり、「仏性があるから修行しなくてよいのではなく、仏性があるからみんな挫けず修行しよう」というのが如来蔵思想の意義だという。
『仏教哲学序説』(護山真也・著)はインドの陣那(ディグナーガ)と法称(ダルマキールティ)の仏教認識論・論理学を、西洋哲学との対比を通して体系的にまとめたもの。日本にはほとんど伝わらなかった最高峰の仏教哲学について、有形象認識論、独自相、仮構、因果効力、自己認識、必然的共知覚といった難解な概念を丁寧に解説している。そこには迷いを生み出す「分別」を捨てて、認識をゼロから修正し、ブッダが悟るまでにたどった道を追体験しようという意味があるという。
お2人ともあとがきで、在任中に急逝された先生の話をしていました。隆泰さんは江島惠教先生が「批判仏教」(大乗非仏説)について、「過去の仏教徒を断罪するかのような発言をする権利が、はたして現代の研究者にあるのだろうか」と仰ったと書いている。現代の動きには敏感で、私がお習いしたとき、当時世間を騒がせていたオウム真理教についてどう思うかと聞かれたのを思い出した(90分授業なのに毎回30分遅刻してくることも)。
護山さんは谷沢淳三先生について、「インド哲学」なるものはどこにも存在せず、そこにあるのはただ「哲学」と呼ばれるべき何かだと仰っていたことを振り返っている。この話は私も覚えていて、黒板に「インド哲学」と書いた後、「インド」にバツをつけたのが印象に残っている(威勢が良すぎて後輩が怯えていたことも)。
江島先生は59歳、谷沢先生は53歳でお亡くなりになり、58歳でお亡くなりになった上村勝彦先生とともに、20~30代だった私は人生の意味について考えさせられたものだった。でも今考えてみると、こうしてあとがきで触れられるように、亡くなった先生方の問題意識は次の世代の研究者に引き継がれ、決して無駄になってはいないのだと思う。まさに”गुरुशिष्यपरम्परा(グル・シシュヤ・パランパラー/師資相承)”である。