中部経典第29経。せっかく発心して出家したのに、修行の途中で満足してしまっている者を、材木の心材を求めながら、枝葉や外皮や皮材や軟材を心材だと思って持ち帰るのに喩える。
枝葉=発心
外皮=戒法
皮材=三昧
軟材=知見
心材=解脱
お坊さんになっただけで満足せず、戒めを守り、三昧を具え、知見に至り、解脱に至るまで修業を続ける。その途中で満足してしまって、自らを誇り、他者を軽蔑し、放逸になってしまってはいけないという。
清らかな修行は利得や尊敬や名声を功徳とせず、戒めをそなえることを功徳とせず、三昧をそなえることを功徳とせず、知見を功徳としない。不動の解脱のために清らかな修行があるのであり、それが心材であり、それが真の完了である。
このお経を読んで、徒然草第52段「仁和寺にある法師」を思い出した(神社本殿を見ないで帰ってきちゃった話)。自灯明、法灯明といっても、「それは心材じゃないよ」といってくれる正師がいないと、「だいたいこんなものだろう」と勝手に満足してしまいがちだ。
そもそも、心材を求める気持ち=菩提心から、現代の僧侶はもちあわせているかどうかすでに危ういような気がする。でも、いつからでも遅くはないはず。「人生は生まれたときから、老いや病や死をはじめさまざまな悩み苦しみに満ちあふれているが、それを何とかして滅したい」という、お釈迦様から伝わる切実な思いを新たにした。