中部経典第28経。ジャングルに住むあらゆる生き物の足跡はすべて象の足跡に包み込まれるように、どのような教えも四聖諦に摂められるという喩えから始まるお経である。
四聖諦のうち苦諦、苦諦のうち五蘊盛苦、五蘊盛苦のうち色蘊とクローズアップしていき、色を地水火風に分けて、身体の外にある地水火風が思い通りにならず無常であるのに、どうして身体の中にわずかだけとどまっているものが無常でないことはあろうかと、こういったものへの執着を離れる非我を勧める。唯物論のようでいて、心の集中や三宝を念じることが説かれているところが仏教の真骨頂と言えるだろう。始点である自己を見失うことはない。
「私の精進は不動となり、念いは確立して失われることなく、身体は軽く静かになり、心は集中し、一つになるだろう。今やこの身体を好きなように、手や棒で叩いて、土塊をぶつけて、刀で切ってもかまわない。なぜなら、ブッダたちのこの教えが実践されるからである。」
「外的な地水火風はこんなに広大なのに、無常で、滅し、変化する性質をもつことが知られるだろう。いわんやわずかだけとどまり、渇愛によって執着されたこの身体に、『私は』とか、『私のもの』とか、『私が存在する』ということがどうしてあろうか。そういうことは決してない。」
私たちが身体だと思っているものは自然からの借り物、絶えず変化し、やがて失われるものであることを常に認識しつつ、大切に使わせていただくということなのかなと思う。