不落因果

晋山式で取り上げる本則「百丈野狐」について、道元禅師が参究した『正法眼蔵』の「大修行」(1244)と「深信因果」(1255)を読み比べ。前者の趣旨は「百丈野狐の話は詳細に見ていくと辻褄が合わない」で、後者は「因果を明らかにすることが仏法である」なのでかなり異なるのだが、「不落因果」の解釈と評価が変化しているところが注目される。

「大修行」より:たとい先百丈ちなみありて「不落因果」と道取すとも、大修行の瞞他不得あり、撥無因果なるべからず(たとえ野狐になった老人が理由があって「因果に落ちない」というとしても、大修行は相手をだますことのできないものであり、撥無因果であるはずはない)。

「深信因果」より:「不落因果」は、まさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に堕す。「不昧因果」は、あきらかにこれ深信因果なり、これによりてきくもの悪趣を脱す(「因果に落ちない」という説は、真に因果を無視するものであり、これによって畜生道に堕ちる。「因果をくらまさない」という説は、明らかに深く因果を信ずることであり、このことから聞くものは畜生道を脱する)。

これに関する研究は山ほどあるだろうが、当初道元禅師は『従容録』と同様、不落と不昧を同列に見ていたのが、だんだん不昧の重要性に気付いてきたといったところか。「深信因果」では撥無因果の文脈で『従容録』の頌を引用しており、もともと、「不落因果」と言って野狐に堕ちた老人を、百丈禅師が「不昧因果」という言葉で救ったという古い話があり、これを『無門関』や『従容録』が疑問視して「不落因果」「不昧因果」をどっちもどっちと解釈したところに、道元禅師がやはり不昧因果に軍配を上げ直したという流れではないかと推測している。

道元禅師は「しかあればすなわち、参学のともがら、菩提心をさきとして、仏祖の洪恩を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし」というが、一寸の狂いもなく、100%なるべくしてなるような、行為と結果の因果関係を個々に明らかにするということは実に難しい。

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