水鳥の 往くも帰るも 跡絶えて されども道は 忘れざりけり
道元が「応無所住而生其心を詠む」という題で詠んだ和歌である。梅花流では『高祖承陽大師道元禅師第二番御詠歌』としてお唱えされる。
この歌詞について、次のように解説されていることに以前から疑問があった。
水面に遊ぶ鳥がさわりなくすいすいと自在に泳いでいます。「往くも帰るも」は水鳥があちらこちらと泳いでいる情景であり、「跡絶えて」は水鳥の泳いだ後にのこる波の跡がなくなっていくさまです。跡はないけれども歩むべき道を忘れてはいません。 (『梅花流指導必携・解説編』)
水鳥が静かに水面を泳いでいる。あちらへ行くかと思えば、こちらの方へ向かっている。自由で何の屈託もなく、その泳ぐ様子には何らかの跡形も見られない。しかしその水鳥は、その足で絶えず水をかき、警戒を怠らず、自分の本来の進むべきを忘れずに、その向かうところを知っている。(『新版・梅花に学ぶ』)
水面で「跡絶えて」道に迷うことなどあるだろうか。どんなに大きな湖であろうとも、岸辺には目印があるはずで、それは誰の目にも分かるし、忘れるはずもない。それよりも空路という解釈をしたほうがしっくりくる。
水鳥たちは、秋は南へ渡ってゆき、春は北へ帰ってゆく。行路には何の跡をも残さないが、しかし、水鳥たちはその行路を忘れることがない。(松本章男『道元の和歌』)
しかしながら、どちらも典拠のない解釈に過ぎず、決定的でなかった。そこに最近見つけたのが『法句経』。羅漢品に次のような記述がある(和訳は中村元『ブッダの真理のことば・感興のことば』・岩波文庫)。
satImanto uyyuJjanti te nikete na ramanti te pallalaM hitvA haMsA iva okam okaM jahanti //91//
こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。
心淨得念 無所貪樂 已度癡淵 如鴈棄池yesaM sannicayo natthi ye pariJJatabhojanA yassa suJJato animitto vimokkho ca gocaro tesaM gati AkAse sakuntAnam iva durannayA //92//
財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。―空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。
量腹而食 無所藏積 心空無想 度衆行地 如空中鳥 遠逝無礙yassa AsavA parikkhINA AhAre ca anissito yassa suJJato animitto ca vimokkho gocaro tassa padaM AkAse sakuntAnam iva durannayaM //93//
その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの行く路(=足跡)は知り難い。―空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。
世間習盡 不復仰食 虚心無患 已到脱處 譬如飛鳥 暫下輒逝
ここでは、水鳥の跡は空(AkAsaアーカーサ/梵AkAzaアーカーシャ)にある。「応無所住而生其心」も、内容的に「心淨得念」「無所貪樂」「心空無想」「虚心無患」に通じる。漢訳もあることから、道元も親しんだ可能性が高い。道元の和歌の典拠は、このお経にあると考えてよいのではないだろうか。中村博士は「人格を完成した人の生活の道は、凡夫のうかがい知り得ざるものがあるという趣意である」と解説している。
この『法句経』をもとにして解説すると次のようになるだろう。
水鳥たちは、春になると北へ行き、秋になるとまた同じところに帰ってくる。空の道は見えないが、通るべき道を忘れていないということである。仏祖も、何事にもとらわれなき心で涅槃に達した。その境地は凡夫には分からないものかもしれないが、修行を続けているものには自ずと開けてくるものである。
空と鳥といえば、道元の次の一節も忘れてはならない。
うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし。以鳥爲命あり、以魚爲命あり。以命爲鳥なるべし、以命爲魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修證あり、その壽者命者あること、かくのごとし。(『正法眼蔵』現成公案)
鳥が空なしでは生きていけないのは誰でも理解できる。問題はそこをさらに進んで、空が鳥なしでは存在できないとした点である。道元はこれによって修証一如を説くが、そもそも湖(娑婆)を脱して空に羽ばたかなければ、修も証もない(湖にいたままでもよいというのは天台本覚思想だろう)。修行と悟りの道は、必ず空にある。
と、ここまで考察を進めてきたが、梅花流で「湖の道」という解釈が通用しているということは、何か別な典拠があるのかもしれない。諸賢のご高説をお伺いしたい次第である。