七世の父母

「六親眷属、七世の父母、有縁無縁三界の万霊、法界の含識に回向す」
法事などの供養でお経の後に読む回向文である。解説によれば読経の功徳を、父母・妻子・きょうだい、七代遡っての直系先祖、欲界・色界・無色界のすべてのみたま、あらゆる処にいるいのちあるもの全てに捧げるという。

お盆のとき、『仏説盂蘭盆経』の原型となったとされる『餓鬼事・舎利弗の母』をもとに次のような話をした。

仏教では、私たちがこの世に生まれる前に前世があったと考えます。前世の前にも、さらに前世があり、生まれ変わっては死に、また生まれ変わっては死ぬということをはるか昔から繰り返してきました。これを輪廻といいます。そして前世には、必ずしも今の家に生きていたわけではありません。しかしそのときにも、父がおり、母がいたことは確かです。その父も母も、私たちと同じように次々と生まれ変わっているわけです。

お盆のお経のもとになった話に、お釈迦様のお弟子さんで舎利弗という和尚さんが、4つ前の前世で母親だったという幽霊に出会う話があります。幽霊はお寺に入れないのですが、元母親ということでお寺に通され、舎利弗に窮状を訴えました。舎利弗はほかのお弟子さんと共に、その幽霊を供養したところ天女に生まれ変わったといいます。

この話から、親子の縁というものは、何度生まれ変わってもなくなることはないと分かります。
お経の後にこの功徳を「七世の父母」に捧げると申し上げました。ふつうこの言葉は今の家の七代前までの先祖と取られていますが、舎利弗のお母さんの話を踏まえると必ずしも今の家の先祖に限る必要はないと思います。前世での父母、その前の前世での父母…というように、7つ前の前世までの父母に功徳を捧げると考えてはいかがでしょうか。

その人たちは生まれ変わって、今も私たちと同じこの世を生きています。また親子になっているかもしれませんし、友人やご近所さんかもしれませんし、あるいは赤の他人かもしれません。その方々に思いを馳せてみて下さい。苗字など関係ないことも分かるでしょう。「袖振り合うも他生の縁」という通り、仏教では私たちに完全に無関係な人はいないと考えます。したがって、誰かを供養するときには「生きとし生けるものが幸せでありますように」という心構えになると思います。全てに対する慈しみの心で手を合わせて頂ければ、自分の心も穏やかになるでしょう。

日本仏教はつくづく先祖教だと思う。お釈迦様より大事なのは直系の先祖であり、お釈迦様は先祖の守り神ぐらいにしか捉えられない。仏様が原義的にはお釈迦様ではなく、亡くなった先祖のことを指すと思っている人も多い(それは「ほとけ」という和語にも原因があるのだが)。しかし明治以来の家制度はどんどん崩壊し、社会は家ではなく個人から構成され、「檀家」ではなく「檀信徒」と呼ばれるようになった。このように家の縛りが解体される世の中で、自己と向き合い、改めて仏教に救いを感じる方もいるのではないかと思う。

前世や来世の話をすると、一番大切なのは現世、今日の一日、今の一瞬であって、前世を振り返ったり、来世に願をかけたりして現世を疎かにしてはいけないと諌める方もいるかもしれないが、私はそうでないと思う。舎利弗の母の話が示すように、今の家族と再び縁を結ぶ可能性は必ずしも高くない。そもそも、人間に生まれ変われるかどうかすら定かではない。だとすれば、今につながる無数の絆を思い、周囲にいる家族や友人を大切にして、その恩に少しでも報いることができるように善く生きるしかない。そう思えるのは、前世や来世に思いを馳せてこそだろう。

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