アショーカ王に、クナラ太子という息子がいた。気高く美しい眼をもっていたが、お寺で僧侶から、眼があまりに美しすぎて将来失われそうなこと、そのため仏の教えを学んで、心の眼、法の眼を開くように言われる。そのうち義理の母である王の第三夫人が言い寄ってきたのを退けたことから恨まれ、偽造した王の命令で両眼をえぐり取られ、追放されてしまう。盲目のさすらい旅は苦労の連続だったが、やがてたまたまアショーカ王の御殿にたどり着く。真相が明らかになり、怒ったアショーカ王が犯人の第三夫人を死刑にしようというとき、クナラ太子はこのように述べた。
「ほとけさまでさえ、過去の業をのがれることはできないのです。まして人間は、だれしもが、宿業のむくいをうけなければなりません。わたしの眼がえぐりとられましたのも、自分がつくった罪のむくいであって、だれもうらむべきではないと思っています。……もし夫人が、こんどのようなたくらみをしてくれなかったら、わたしはいつまでもたよりにならない肉眼にこだわって、たかぶったり悩んだりしていなければならなかったでしょう。それを思うと、わたしは、夫人に感謝こそすれ、すこしのにくしみももってはおりません。」
クナラの過去の罪とは猟師だったときに鹿の眼をえぐりとって食べていたためであり、太子に生まれたのは長者の息子だったときにお金を出して壊れた仏塔を直し、仏像を建てたからだという。
この話は『大人のための仏教童話』(東ゆみこ著)で知ったものだが、著者は「クナラは、自分の苦しみがどこから来ているのかを理解し、その苦しみの連鎖を、自分の敵ティシャラキタを赦すことによって断ち切ろうとした」と解説している。
これを読んだとき、私は真っ先に悪しき業論だと思った。現世でのハンディキャップは過去世が原因だと説くことで、現実の問題に取り組み、改善していく未来志向の努力を放棄させ、社会差別を肯定してしまう恐れがある。この説話にそのような意図は全くないとは思うが、そう読み取ってしまう自分が過剰反応なのか。
曹洞宗では、宗務総長が世界宗教者会議で「日本に部落差別はない」と発言した事件以来、人権学習を研修に必ず取り入れ、差別問題の解消に取り組んできた。私も10年以上、そういった研修を受けてきたが、ややもすると「これはアウト」「これはセーフ」というような線引きに腐心するだけで、人権問題の本質を考えないまま不安ばかり与えたようにも思う。(このことは曹洞宗でも認識しているようで、近年の人権学習は差別事件から自死、いじめ、介護問題などに移ってきている。)
お釈迦様が自らを業論者であるとおっしゃったように、仏教と業論は切っても切れない。それが解釈の問題であれ現代の人権問題と衝突するとき、教義と人権を両立できるのか、どちらかを捨てなければならないのかを悩む毎日である。
ちなみに人権擁護委員としては、違法性、具体性、加害者、被害者などの要件を満たさないものは人権侵犯事件として調査対象にならないので、ここまで悩むことはない。