地元で教育者研究会というのがあって、ほとんどは校長先生が参加するものらしいが、縁あって私にも声がかかり、少しの時間ではあるが参加してきた。朝9時からまる1日の研究会だったが、長女の歯医者、長女と長男の水泳教室の送迎があり、さらに原稿執筆、家の掃除があってわずか1時間。講演は最後のほうだった。
道徳の話で、伝統の押し付けでかまわないというような話だったのでいまひとつピンとこなかったが、最後の項目は胸に響いた。
自分を見つめることができる教師
・見られていることを忘れている教師(態度、言動、振る舞い、心)
・影響の大きさを忘れている教師(感化力、人格)
・教えることを忘れている教師(分かる授業、楽しい授業、充実感のある授業)
教師に権威がなくなった理由
・子供への迎合・諂い・機嫌取り
・対社会的貢献・職種の異なる人との付き合いの不足
・人生に対する確固たる指針(羅針盤)の喪失
誰でも一流の教師になれる
・教師の真の仕事に手を抜かない教師(授業、生徒指導、道徳教育)
・品性完成に向かい継続的努力をする教師(感謝と報恩、人心の開発と救済)
・寸暇を惜しんで本を読む教師(専門書、聖賢の書)
確かに先生方にも思い当たるところがあるのかもしれないが、僧侶にもぴたりと当てはまりそうなことばかり。
私たちは近所の檀家さんにいつも見られており、いろいろな場面で多大な影響力を与えている。それなのに、葬儀法事をただマニュアル通りにこなせばよいと思いがちで、布教や教化の貴重な機会であることを忘れてしまってはいまいか。
僧侶に権威がなくなったのは、檀家さんのイエスマンになって、お寺の外に出ることを怠り、自分自身がどのように生きるべきかを見失っているからだろう。
葬儀法事を通した布教教化、檀家さんの悩み事相談、法話などにまじめに取り組み、また肩は張らずに背筋を伸ばして毎日を送り、最近本を読む時間がないなどと言い訳せずちょっとずつでも読む。
惰性に振り回されず、気を取り直してお勤めしたいと思った。明日明後日は近隣のお寺のお葬式のお手伝いだ。
子供に古典を読ませようという話で、因幡の白兎の話が出た。どんな話だったのか思い出せないので長女に聞いたところ、しっかり教えてもらったのは内緒である(ついでに、天岩戸とヤマタノオロチの話も教えてもらった)。そんな長女に、21世紀版少年少女古典文学館シリーズの『古事記』を注文したところである。