朝日新聞で連載されていた「ニッポン人脈記・弔い 縁ありて」をもとに、記者が全面書き下ろした現代葬儀事情。出来事よりも人を中心にして構成されているのが特徴である。情報が充実しているだけでなく、考察も深い。
本書は新聞記事をベースにした第一部と、15年前の「弔いの場で ルポ・お葬式の祭壇裏」という記事を現代を比較する第二部からなる。第一部では、遺品整理業、桜葬、散骨、生前葬、エンバーミング、エンゼルメイク、納棺師、手元供養、火葬場、葬祭ディレクター制度の10トピックが取り上げられ、第二部では無縁化する社会での葬儀の変化を見る。
注目したいのは葬儀にもエコの動きが見られること。葬送の生前契約の先駆者である「りすシステム」の松島如戒氏が新たに設立したNPO「エコ人権葬推進機構」では、カーボンオフセットを参考に、火葬などで排出される二酸化炭素量を算出し、葬儀の代金に上乗せして植林などの環境保全に役立てるという。また、ウィルライフという会社は、使う木材が少なく燃焼時間が短い棺「エコフィン・ノア」を販売し、1つ売れるごとにモンゴルに10本のアカマツを植林している。これを聞いて近くの葬儀社に問い合わせたところ、仕入れられるという話だったので、うちで何かあったらお願いすることにしている。
とかく葬儀が費用の話になってしまうことを、著者は諌めている。葬儀の価値というものは「葬儀の原点」の有無で決まる。故人を悼み弔う場、故人の人生を振り返る場、遺族が悲しみに浸る場、悲しみからの回復や故人を軸とした人間関係の再構築を始める場、死者の供養の場が、葬儀で満たされたか。
Aさんの葬儀では100万円だったのが、同じ葬儀の内容(というものがあるとしてだが)で、Bさんは80万円だったら、Bさんの遺族は「安くできた」と喜び、Aさんの遺族は「失敗した」と感じるべきなのだろうか。家電製品を買う基準と葬儀は同列の論じ方ができるのか、するべきなのだろうか。
昨年、イオンがお布施の目安を公表したことに、仏教界が反発して削除されるということにも触れられている。寺離れという実態と「本来あるべき姿」のギャップを埋めることが先決である。檀家さんとよく会い、よく話しておくということが、お布施云々よりも大切な「本来あるべき姿」なのだろう。一期一会、もう会えないかもしれないという気持ちで接すると、どんな檀家さんも愛おしくなってくる。
私は、お寺は葬式仏教でいいじゃないか、と思っている。むしろ葬式、人の死という、人生のこれ以上はない一大事に関与できることを、僧侶には誇りに感じてほしい。まさに釈迦に説法だが、葬儀の意義はそれほど深く重い。葬儀の日のためでいい。菩提寺は檀家との日常的なコミュニケーションをとる。戒名をつけるに際し、「ああ、あの人はこんな人だった。だから」とスラスラと戒名を思いつくほどの関係を、日頃から意識してほしい。それは自ずと、寺と人々との関係を近しいものに変えていく。
最後に、「面倒や迷惑をかけないよう、葬儀は身内で」という高齢者が増えていることに著者は寂しさを感じるという。思いやりからだとしても、自ら絆を希薄化したり、否定したりするような印象を受けるからである。同じことは私も感じていて、迷惑をかけあって生きれば、もっと肩の力を抜くことができるんじゃないかと思う。
地域に、行政に、知人に声をあげ、助けを求め、多少の「迷惑」をかければいいじゃないかと私は思う。人と人がつながれば、お互いに多少の迷惑をかけあうのは当たり前のことだろう。そんなことさえ許さない雰囲気の社会になっているのだろうか。社会の絆を取り戻すとは、人は一人では生きられない、多少の迷惑をかけたっていいんだという、「当たり前」なことを再確認するところから始まるように思う。
葬儀という窓を通して、死生観や現代社会が見えてくる。本書では触れられなかった「戒名は必要なのか」「仏式で葬儀をする必要があるのか」といった仏教の問題についても、伝統的な教義と現代の様相を合わせて考えていきたいと思う。